やおい的歴史ねた

以下は、「やおい」だの「june」だの「女性向き」だのという言葉を聞いて「あぁ、あれね」と頷けない人には完全に意味不明ですのでご注意ください。といって、読んだところで実害はないと思いますが。

三国志裏サイト

ここ数日、裏系の三国志サイトを回ってみた(たとえば歴史系裏電網探索などから回ると効率がよい)。驚いたのは、カップリングだの容姿のイメージだのが正史準拠になっているということ。たとえば曹操×荀彧(ジュンイク)だの曹丕×司馬懿などというップリングは荀彧や曹丕の正史における表現を知らないでは、えらくマイナーなカップリングだと思うはずだ。陳羣(チングン)の郭嘉弾劾などは逆に思慕の表れとカップリングネタにされている。とにかく隔世の感を受けた。

世代が違うのだ、と思う。我々は、ちょうど中学生くらいまで吉川英治をはじめとした概ね演技準拠の三国志小説にしか接することが出来なかった。この事態が変わったのは、間違いなくちくま学芸文庫に正史全訳が収められたためであろう。このころから、数多くの演技非準拠の小説群が現れた。そして今、三国志小説の同人界を賑わしているのは、これらの小説群を読んだ人びとであろう。三国志ほど世代間のイメージの断絶が明らかな歴史物語は少ないのではないだろうか。

中には、かなり史料を読み込んでいる節のあるものもある(もしかして院生か?と勘ぐる)。これだけ気合いがあれば、『明実録』など明清期の溢れるような史料に接しても臆するところはないにちがいない。願わくば、そのような小説のあらわれんことを。

二次創作と歴史学

さて、上でなぜ『明実録』などを引っ張り出したか、ということである。それは、歴史学の方法と二次創作にある種の共通性があることを指摘したいためである。

Web上や同人誌におけるこの手の小説の特徴は、なによりもまず、すでに存在するストーリーにおける登場人物やシチュエーションに対して、ある種の思い入れ(というか妄想)を抱き、その思い入れに従って、なんらかの再解釈をほどこし、二次的に創作を行うという点にある。もちろん「やおい小説」であるからといって、すぐれたオリジナルのものがないわけではない、というよりも、すぐれたものはオリジナルであることが多い。しかしながら、「やおい小説」の世界においては、二次創作の広がりは、とても無視できるものではない。むしろWeb上のリソースや同人誌など商業ベースに乗らないリソースの数を数えれば、圧倒的に二次創作の数のほうが多い。これを単に「創作能力の不足」ということは、たやすい。しかし、二次創作であるからこそ、発揮せねばならない能力がある。それが「再解釈」である。

やおい的二次創作においては、抱いた妄想を説得的に構成するために、既存のストーリー中に散りばめられたエピソードをかき集め、ある程度の再解釈をせねばならない。その再解釈のために、作者たちはおどろくほど丹念に元となるストーリーのテキストを読み込んでいる。特にやおい的二次創作は、もともとやおい的要素のないストーリー中で、やおい的カップリングを構成しなければいけないという、獣道開拓ともいうべき性格をもっている。とすると、二次創作の中でも、やおい的二次創作は、ストーリーを変更するというより、いかに無理なく既存のストーリーにやおい的要素を持ち込むかという問題になる。その結果、構成上の創作の余地は極小化され、むしろ最大限の解釈を行うことに集中しなければならないのだ。かくも妄想とは偉大なものか、と思うわけだが、実はこれは妄想に基づいてテクストを再解釈するか、仮説に基づいてテクストを再解釈するかの違いで、歴史学の方法とやっていることは同じなのである。もちろんこれは帰納的な方法であって、演繹的にはエピソードを読み込めば読み込むほど、妄想がふくれあがるという可能性もある。とにかく、二次創作における一次著作物は、それが漫画であろうとアニメであろうとゲームであろうと、二次創作作家にとって、歴史家の史料と性格を異にするものではない。

そして妄想にある一定の確実性が見込めた時には、人物のイメージができあがる。このとき、さらに再解釈を重ねると、テクスト内での各記述の不整合なども目につき始めるらしい。これについて何らかの批判を加えれば、それはすでに史料批判である。

史料の形式

さて。繰り返しになるが、やおい的二次創作の本質は、あるキャラクターとあるキャラクターをくっつける、そしてくっつけるためにテクストから状況証拠を探す、という二点にある。当然、なんらかの抽象的テーマのケーススタディよりも人物の具体的動きの描写が中心となる。ということは、紀伝体という叙述形式が実にやおい的妄想をふくらませるのに適しているのではないか、との疑問に行き着く。

人間中心に書いているのだから、当然といえば当然である。紀伝体の史書から、理念型的図式を引っ張り出すのは大変困難であるが、カップリングの妄想を働かせるのは容易なのではないか。そしてその妄想が体系的に世界を形成し出すとき、それは一つの解釈となる。三国志裏サイトでは、多くのサイトで、小説とは別に人物評やカップリング論を展開している。場合によっては史料を逐一挙げて論を展開しているところもある。これはもう一つの歴史叙述だ。

その意味から言えば、一般的な概説書は世界のイメージを描くことに主眼があり、人物のイメージを描くという要素は少ない。逆に史料、特に紀伝体のものや、人物伝集(たとえばアラビア語史書のタバカートと呼ばれる分野など)は、世界像を構築するために読むわけだが、とにかく微細な記述が多く、はっきり言っていらいらしてくることもしばしばだ。妄想はこのようなものを本格的に興味深く読む情熱を与えてくれるに違いない。うらやましい限りである。そういう意味では三国志に限ることなく、史料はまさにカップリング的妄想の宝庫なのである。史料を読み込むということ自体は同じ行為である。妄想は、それが妄想であると自覚できる限り、歴史学におおいに資するに違いない。

史料はいまだ無限大

三国志関連の資料は、文献資料に関する限り、新たな発掘でもなければ研究され尽くしているだろう。しかしながら世の中には、まだまだ研究の先鞭がつけられたばかりというような分野も山ほど存在する。北京の档案館には整理だけでも100年はかかると言われる史料群が眠っているし、先に挙げたマムルーク朝期のタバカートの類(たとえばもっとも有名なイブン・ハジャル・アル=アスカラーニーの『隠れた真珠』は1372年から1449年までの1万数千人の伝記が収められているが、本格的な研究は出ていない:長谷部史彦助教授教示)もそうだ。どんどん人物を検証して、くっつけていく余地はある。原典にあたれば、無限の創作の可能性が溢れているのである。

問題点

もっとも問題点もある。妄想を妄想として自分で満足できれば、それは問題がない。しかし、妄想を人に読ませたいとなると、世界観を共有していないマイナーな人物をひたすら出されても、読者はさっぱりわからない。そこをどう開拓するか、それが獣道に課された問題なのである。

ついでに

ところで、回ったサイトの中で一番気に入ったのはDarkSideoftheStar(http://members.jcom.home.ne.jp/darksideofthestar/)にある「逆しまの庭」という小説。これは全然やおいモード入っていないのですが、禅譲による王朝滅亡の雰囲気がよく書けている気がします。「滅亡」のイメージがコンスタンティノープル陥落である私にとっては、ここに書かれている静けさと空気こそが、「時代の終わり」とかそういったものを伴わない、本当の単なる「王朝の滅亡」のように思えました。

古い概説の楽しみ

ここのところ、前嶋信次や嶋田襄平といった人びとの書いた一時代前の概説書を読みあさっている。イスラーム世界の研究者はここ10年ほどで激増した、という印象がある。だから、古いものは本当に古くなってしまっていると思って、ちょっと敬遠していた部分があった。ところが、読んでみるとこれが意外な発見が多いし、基本的な枠組みはいまの概説書とも変わらない。そして、なにより、文の運び、語の選び方がすばらしい。もちろん、いまの概説書もテーマの選定、物語の運びには、感嘆を禁じられないものが数多い。羽田正さんの平らかでしかし余韻ののこる語り口、山内昌之さんの該博な語彙などいくらでも数え上げられるだろう。しかし、なにかしら、香りが異なる。もしかしたら、前嶋さんらは中国史料にも親しまれた世代だからかとも思う。しかし、言葉にも世代があるというのなら、あの人たちの世代といまの世代とは、違うような気もするのだ。前嶋さんの流麗な、嶋田さんの澄明な、イスラーム世界の『長安の春』。あのような文章が読みたい。

革命の真実と心性

ここのところディケンズを読んでいて、『二都物語』にちょっとはまり、その影響でフランス大革命にまたまた興味が回帰した。ついつい『ベルサイユのばら』も読んでしまったのだが、そもそもの私のフランス革命観というものが、なにかずいぶん古くさいところで止まってしまっている気がしたので、五十嵐武士,福井憲彦『アメリカとフランスの革命』(世界の歴史),中央公論新社,1998.を読んだ。

結局のところ、フランス革命が大革命となったゆえんは、民衆の動力があったからこそ、ということである。革命は、球戯場の誓い以降、専制啓蒙体制、立憲君主体制、自由主義的共和制と何度でも軟着陸のチャンスがあった。しかしその解決を模索する時間は、常に「パンと価格統制」という民衆の示威の前に奪い去られ、革命は新たな段階に突入し、続行したのである。価格の統制は、自由主義的啓蒙思想に立脚する議会が常に拒みたい選択肢であった。モラル・エコノミーと啓蒙思想は、革命の両輪であった。だが、それは常に寄り添いあうものというよりは、相争う面ももっていたことを忘れてはならない。

「革命は銃口から生まれる」。毛沢東の見通しは正しいものであった。しかし、その銃口が生まれるには、あまりにも多数の複雑な要因が絡まり合っているのである。フランス革命研究は、ここまで進んでいる。しかし、その一世紀近くのちのイラン立憲革命研究では、まだまだその心性に言及できるほどの史料が揃っていない。人口史的経済史的社会史的研究はまだまだ端緒に付いたばかりなのである。

NDL-OPAC雑誌記事索引サーヴィス開始

11月に入って、国立国会図書館のNDL-OPACで「雑誌記事索引」が使えるようになった。これまで論文を探すには、大学の図書館などが契約したMagazine-Plusなどのサーヴィスを通じて検索するしか手段はなかった。たとえば慶應義塾の場合は、図書館に行ってWeb接続のコンピュータから検索するか、学内ネットワークに接続してからでないと検索できなかったのである。それがインターネットを通じて誰でも無料で使えるようになったこと、その意義は強調してしすぎることはないだろう。論文を探して読むというプロセスは、物事を学術的に調べようとしたら避けて通れない。しかし、論文を検索する手段が、これまでは研究機関に所属しなければ、ほとんどないという状況であったのだ。

今回のNDL-OPACでの「雑誌記事索引」の公開によって、はじめて人文系の研究でも網羅的な雑誌論文データベースへのアクセス手段が、広く共有されるようになったといえる。現状では、研究機関に所属しなければ、物事を調べることは非常に困難である。論文へのアクセスを除けば、まだ色々な困難さがある。そのあたりの図書館に学術雑誌が入っていないということなどは、その最たるものだろう。しかしそれでも、その困難さの一つが取り除かれたということは、「在野の学」のためによろこぶべきことであろう。インターネットの恩恵がようやく人文科学にも及んできた。

役立つ電子史料

The Latin Library

ここのラテン語の電子テクストは本当によく整備されています。すばらしい。どんな言語でもこういうのが整備されるとよいですね。国立国会図書館でも近代デジタルライブラリーとして明治期刊行の図書を見ることができるようになりました。願わくば、東洋文庫様……以下略。

イスラーム関連でオンラインで参照できる史料集としてはal-Islam.orgのIslamic Sources Repositoryなどがあります。この類収集してみたいです。

英語の壁

読むという行為は受動的なのだが、解釈という行為まで含むと考えると能動的な部分もある。私は英文における社会言語学的なレヴェルの解釈はどのように学べるのか、ということに不安がある。

たとえば、私はこのところ論文や論説ばかり読んでいるので、ほぼ「論説文」的なレヴェルの文章を読んでいることになる。日本語で言えば「だ、である調」の文章である。しかし新聞記事などでもインタビューで生の文章が出てくることがある。そこでの文章が「だ、である調」なのか「です、ます調」なのかで、インタビューされている人の印象は変わる。ところが、私は英文に関して、これがわからない。文の意味はわかっても、それがどのような「語られ方」をしているのかがわからない。これでは情報は半減しているのではないか。

同時に発話の場合も同様であろう。「感謝します」と「大変感謝する」と「ありがとう」はまったく別の言葉である。英語でそれぞれはどのように表現されるべきなのか、そるいはそのような表現は不要なのか。どうすれば学べるのだろう。

英語を読む日々

よく考えたら、最近は日本語より英語ばかり読んでいる気がする。CNNとIHTはいくつか記事をピックアップして読むし、日本のものもDaily Yomiuriと讀賣のサイトを見比べる。Mozillaについては本家のBugzillaを参照せねば話しが始まらないし、ニュース系の MozillaZineなども英語。もっとも新聞はきわめてはっきりした英語だし、Bugzilaの英語はコメントしている人間によるが、かなりブロークン。としたらちゃんとした英語は、以前に届いていたIslamic Area Studies Working Paper Seriesくらいか。しかし一昨日の異常な暑さが転じて、今日は異常に寒い。体調がおかしくなりそうである。

宗教としてのイスラーム

イスラームの神=アッラーフは人格的唯一神であり、キリスト教やユダヤ教の神と同一である。しかしイスラームは神と人との関係について、合理的である。たとえばキリスト教のようにイエスに神性を認めるために、はなはだの難しい三位一体の教説をとったりはしない。神は神であって、子を産むようなことはない。したがって当然神の子は存在しないし、預言者ムハンマドもあくまで人であり、奇蹟など起こさない。人は人、神は神で論理的に理解しやすい。

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英語と発音

私は英語が苦手である。特に聞き取りと喋りはできるだけ避けて通りたいと思っている。語学の順序としては聞き取りと喋りは当然読み書き以前にやるべきもので、そうあってこそ初めて読み書きが流暢にできるのである。しかしながら英語を恐れ続けてから十年近いキャリアを誇る私としては、英語に関してだけはそのように考えることはできない。

聞き取りにおいては、tやsなど空気みたいな音が「音」として聞き取ることができない。声門閉鎖音や舌音はわりと強いのだが閉音節が悲劇的である。そうすると、前後の単語の区切りが全く不明確になり、どこまでが単語かがわからなくなる。これはきわめて由々しい問題なのである。フランス語はさらにひどくてリエゾンやアンシェーヌマンでべっとべっととくっつくと言われるが、むしろ規則化されていてわかりやすいし、閉音節が後の母音によって開音節化するのでいくぶん聞きやすい。ところが英語であるとどこでくっついて、どの音が発音されないのかといったことはほとんど経験上の問題であるらしいので、経験したくないと思っているとさらに深みにはまっていくのである。せめて、漢文を読めた日本人のように、英語を読める日本人になりたい。十年間さぼりつづけたのであるから、もはやしゃべる、聞くはあきらめるので、せめて読むだけはできるようになりたいのだ。

で、せめて読めるだけは、と思って勉強しているのだが、単語を発音しないと覚えないというので、まず発音記号を読めるようにしなくてはと思ってひととおり勉強してみた。そうしたら驚くべきことに、私が「そうだ」と思っていた読み方がどうもずいぶんと違うようなのである。どおりで聞き取りがやたらえぐいわけだ。なのでやっぱし野心は高くということでお勉強お勉強。

関連リンク

英字紙和訳のTips

新聞や通信社配信報道文というものには、独特の文体や作法といったものがある。このことに関する本はたぶんたくさん出ているとは思う。まだ訳し始めてせいぜい半月であるが、その間に私でも気づいたものはいくつかある。今回はその気づいたことのメモ。

日付の表現

概ね新聞での時間の表現は日単位で、時刻については特記する必要がない限り、せいぜいが何日未明、早朝、朝、午前、昼、午後、夕、夜、深夜までしか表記しない。日本語の新聞では次のように日付を用いるのが普通である。

小泉純一郎首相は九日、「……」と述べた。

なお普通は「……は……日、……と言った」だけで文を構成することはない。「……は……日、……で……について……と言った(表明した)など場所と発言の対象についても記述する。

これが英文では次のようになる。

Prime Minister Jun-ichiro Koizumi said Tuesday that …

違いは一目瞭然であろう。英文では曜日を基準とするのである。当然のごとくprevious Sundayなどの言い方もすることになる。曜日を強く意識していないといつのことかわからなくなる。なお、訳では新聞らしさを出すなら日付に変換し、欧米の新聞らしさを出すなら曜日のままで良いだろう。この日付が入る場所は概ね決まっていて日本文では新聞体に特徴的な「主語+日付+、+主文」となり、英文では副詞であるから動詞の後ろが普通。

人名

人名についても使い方が異なる。日本文では上記のように初出で「小泉純一郎首相」のように姓+名+肩書を用い、以降は姓+肩書を用いるのが原則である(日本の大臣、特に首相、外相、法相の二字に略せるものは肩書のみの場合もある)。「小泉は……」というように呼び捨てはありえない。犯罪者であっても「被告」などの肩書はつくし、何もない場合は仕方がないので「……さん」を用いる。また一般に代名詞は使用しない。「彼は」のような使い方はしないのである。

英語では、呼び捨てと代名詞の使用が普通である。初出で肩書き付きとなるのは同様であるが、その後は肩書きは用いない。もし肩書き付きで出す場合も、ひたすら「Prime Minister Koizumi」などを延々使い続けることは好まれない。タイトルがいくつかあれば、それを使いまわす。また代名詞を使用するのも普通である。たとえば、三月十八日付のInternational Herald TribuneViolence undercuts U.S. envoy in Mideastという記事では、十二回ジニ米国特使について触れているが、次のように使いまわしている。

  • General Anthony Zinni
  • the American envoy
  • Zinni * 6
  • the U.S. envoy
  • he
  • the envoy
  • the retired Marine general

このようにきわめてヴァリエーションに富んでいる。さらに代名詞を使った場合は要注意で「彼は彼らについて……と言った」と日本語であれば、「彼ら」は「彼」の属する集団と漠然と想像するのに対して、英語では全く違う場合が普通。

外電注記

英文の記事では主見出し+記者+(配信元)+日付+(袖見出し)という形になる。記者と配信元は見出し領域に入ることが注目される。そして発信地は最初の文の冒頭に挿入しボールドゴチックで表現される。先にあげたViolence undercuts U.S. envoy in Mideastをごらんいただきたい。

これに対し、日本文では見出し以外の要素は本文冒頭に【発信地日付=記者(または通信社)】と囲んで挿入する(外電記事では日本の新聞でも記名記事となる)。上記リンクの例では次のようになる。また通信社配信記事では記者の名は省かれる。その例も挙げる。

  • 【イェルサレム十八日=セルジュ・シェンマーマン】アンソニー・ジニ将軍のシャトル外交四日目は……
  • 【ラーマッラー(ヨルダン川西岸)二十日=AP(共同)】イスラエル軍は二十日、ヨルダン川西岸の都市ラーマッラーに侵攻し……

その他

これは英文共通であるが、間接話法と直接話法が入り乱れて登場するので、その中の代名詞については要注意である。稀ではあるが間接話法で導いておいて、一部””を入れて直接話法となっている場合もある。

英文和訳の諸問題

ここのところ、やっきになって英文和訳の練習をしている。とりあえず大学受験の参考書をひたすらやっているというのが現状であるが、そこそこのレヴェル以上の参考書になると、構文を説明するための例文で、知らない単語だの熟語だのが頻繁に登場して、とてもではないが構文どころではなく、閉口している。やはり語彙が少ないということは致命的なのである。

しかし、そのような致命的状況にありつつも、やはり和訳の問題は気になって仕方がない。不自然な日本語は、気にかかるのである。

英文における単語を単に日本語に置き換えるだけでは、和文として読むには程遠い文章ができあがるだろう。したがってなるべく日本語として理解しやすいように訳すことになる。しかし条件として、和文英訳の原則として、原文にある要素を変えてはいけないというのがあるらしい。これが難題なのだ。原文の要素を日本語でそのまま全て表現できるわけはないので、原文の内容をいかに損なわずに、日本語としても自然な文とするか、この矛盾の調整が訳ということになるが、実に難しいのである。

但し上記のようなことを意識することは、英文の内容も満足に理解できない私のような者には、英文の理解そのものの学習に害をなすだけだと思う。従って、ここでそれを吐き出してしまい、今日からしばらくは意識しないですむようにして、勉強に資することにする。内容については、一応、私の英語の先生に確かめてはおいたが眉唾ものと思って読んでいただきたい

例1 ニュアンスの違い

The English people were very eager that the Queen should marry and leave an heir to the throne.

この文章の訳文として、もっとも一般的なのは次のようなものだろう。

英国民は、女王が結婚して王位後継者を残すことを強く望んだ。

学校の授業などでこのような文章に慣れてしまっているので、たぶんあまり違和感を感じないかもしれないが、日本語としては少々ひっかかる。

まず「英国民は……強く望んだ」。日本語では「……国民は」を主語にするのは、相当にフォーマルな文章に限られる。国会での決議を経て国民的意思として発出する文書などで使われる文章で、「……市民は」や「……社員は」などでも同様であろう。つまり一種の宣言文の形式なのである。原文がこのようなフォーマルな文章である保証はない。日本語で「……国民は」とするとフォーマルな感じが出てしまうので、原文にない要素を追加してしまうことになる。従って主語は明示せず、「……が強く望まれた」が正しい。

さらにleaveを「残す」と訳しているが、「残す」という表現は日本語では「残し(て去る)」という意味合いが暗示されていることまで考えなければいけない。つまり文脈上女王が子供を作って死んでしまうまでを想定していることが文に露骨に現れてしまう。極端にいえば「子供を残して死ぬことを」望んでいると解せるのだ。これはいけない。英語でも「残して去る」がleaveの語義であるが、この場合のように「子供を作ることを望む」という時に、英語ではleaveを用いるのが、自然で普通の言い回しなのかもしれない。そうであれば「残す」ことは意識されても「死ぬ」のほうにはほとんど意識されないだろう。しかし日本語では「残す」をこのような文脈で使うのは稀であり不自然である。にもかかわらずあえて「残す」が使われているということは「残して死ぬ」の「死ぬ」を強調したいためであろうと推測されても仕方がない。つまり女王自身はどうでもよいということが強調されてしまうのである。「残す」では英語にない「残して死ぬ」という強烈なニュアンスが付け加わってしまうのである。これは原文にない要素を付加してはいけないという英文和訳の原則に違反することになるのである。したがって「継嗣を儲ける」くらいが妥当だろう。

しかもこの文章では、「女王が結婚して王位後継者を残すこと」が「国民が強く望んだ」ことである。文章の骨格に「女王が……すること」と「国民が……を望む」と主述関係が二重に存在している。このような複雑な文もあまり好まれない。この場合は「女王の結婚と継嗣の誕生が望まれている」が好ましい。これでようやく不自然ではなくなる。

また「英国民」という訳もおかしい。前後の文脈がわからないのでなんともいえないが、英語の世界ではイギリスとイングランドが日本語におけるよりきちんと区別されていることを考慮せねばならない。English peopelであってBritish peopelとは書いていない。たとえばこの文章が十六世紀の出来事について述べているかもしれないことを考えれば、「イングランドの人々」がより正確である。もし筆者が「連合王国民」の意で用いたのであれば、前後から推測するしかないがここではそれができないので、イングランドと考えたほうがよい。なお「王位後継者」などという言葉はないので「王位継承者」が適当。上記をまとめると次のようになる。

イングランドでは、女王の結婚と継嗣の誕生が強く望まれていた。

例2 日本語での使役的表現

英語の発想法は日本語の発想法とは異なる。当然のごとく、新聞記事でも力点がおかれる場所が変わってくることが想定できる。英語では主語が非常に明瞭に示される。これは日本語にする上で非常にやっかいである。英語での主述関係において、形式主語itを日本語では明示しないのは当然としても、それ以外の場合でも主語を全て明示すると、日本語としては窮屈に過ぎることが多い。

さらに他動詞の使役的表現は、もとの英語でのニュアンス以上に日本語になった時に強調されてしまうことも多い。とりあえず訳してみた文章が次のようであったらどうであろうか。

横浜市民は、その市長選挙で高齢でその当選回数の多い高秀現市長を嫌って、中田候補を当選させた

不自然である。日本語の表現では「当選させた」という言い回しが自然に感じられない。さらに「その当選回数の多い」という表現は「その」という指示語が読み手に「どの?」という疑問を抱かせ理解を妨げている。原文では関係代名詞が用いられているので、「その」が出現するのは「高秀現市長」より後ろであるが、日本語では前になる。一般にこの程度の簡単な文章で指示語を用いるべきではない。名詞化できる時は、著しく難解な名詞にならない限り、できるだけ名詞化するのが作法である。

さらに英語では「高秀現市長を嫌って」いるのだが、日本語でそのよう
に書くと人格否定のニュアンスが加わってしまう。それは原文の意図するところではない。したがって高秀現市長の属性を嫌っているという風に表現を改める必要がある。

横浜市長選では、高秀現市長の高齢と多選が嫌われ、中田候補が当選した

こちらのほうが自然な言い回しとなる。背後で「横浜市民が多選・高齢(の高秀現市長)を嫌った」ことは示されても括弧の中は文章には表さないし、その結果「中田候補が当選させられた」のであっても文章上はあくまで「中田候補が(自然に)当選した」とするのである。

報道文では、普通「……が嫌われ、……になった」という言い回しを使う。「……を嫌い、……になった」という言い回しは、「(市場が)……を嫌い、値を下げた」のようにきわめて特殊な場合にしか用いない。

例3 指示語と代名詞をめぐって

以下の例を見てみてる。

He had to decide whether to abandon these principles, rationalize them out of existence and thereby cling to security and comfort.

まず一般的な訳。

彼はこれらの原則を放棄し、理屈をつけてそれを消滅させ、それによって安定して快適な生活を守り続けるべきかどうかを決定しなければならなかった。

このとき、一つ目の「それ」と二つ目の「それ」が異なっていることはお分かりだと思う。一つ目の「それ」は「これらの原則」を指し、二つ目は「それ」は「理屈をつけてそれを消滅させ(ること)」を指す。文法上問題ないかもしれないが、このように一文の中で指示語が三回も出てきてそれぞれ内容が異なる。しかも一つ目の「それ」は「これらの原則」を受けており指示語の内容が同じなのに、すぐに指示語で受けなおすという癖も日本語としてよろしくない。このような文章は日本語では読み手を混乱させる悪文である。

できればそれぞれ内容を繰り返すのが好ましいが、繰り返した結果あまりに文章が煩雑になるのなら、次のような訳が適当だろう。

これらの原則を放棄し理屈をつけて消滅させそうすることによって安定的で快適な生活を守り続けるべきかどうか、彼は(それを)決定しなければならなかった。

英語ではなんでもかんでも代名詞で受ける癖があるが、日本語ではあまりに気持ちが悪くなる。指示語の内容を考えて、内容が述語を備えた節を受けるようなら「それ(これ)」ではなく「そう(こう)すること」などのように若干の補足を加えるべきである。また疑問形容詞や接続詞などでまとめられた従属節が延々と展開されている場合、日本語では上に示したように最後に「……かどうか」というまとめの言葉が入ることになる。そこに対格助詞「を」を加えると文の構造の複雑さが一気に増す印象を与えることになる。あえて示す必要はない。「彼が決定する」のは「……かどうか」に決まっているからである。もし必要なら、ここで「それ」という指示語を使ってもよい。「……かどうか、それが……である」や「……とは何か、それは……である」といった言い回しは特に強調構文ではない。このような言い回しと指示語の使い方が自然である。

なお、「安定して快適な生活を守り続ける」では「(安定して快適な)生活を守り続ける」と読むのは難しい。「安定して(快適な生活を)守り続ける」のように「安定して」は「守り続ける」を修飾していると考えるのが普通である。従って、安定と快適を並列させるには「的」という便利な接尾辞を用いて、「安定的で快適な生活を」とした。

暦法の哲学

節気

掲示板で新暦と暦があわないということをいった。そういえば知らぬ間に啓蟄である。啓蟄とは、あったかくなったので虫さんも出てくる季節ということ。驚蟄ともいう。今日は暖かい。

暖かくなったから、というわけではないのだが、明後日より北海道に出かける。あちらはまだまだ寒い。南の方ではだいぶ暖かくなって昼間に氷が融けて、夜になるとまた凍りアイスバーンを形作るころではあるが、総体として寒いのには変わりないだろう。

イスラーム暦

さて話を戻す。暦と季節といえば、イスラーム暦などは、はじめから暦と季節があうということを全く想定していない。暦と季節が一致するということは、暦が時の算法だけでなく、農事暦的にある程度現実にすり合わせた実用性を備えているということである。一般に暦は天体の運行に基づくものである。特に満ち欠けがあるという点で非常に視認が容易な月の運行を基礎にしていると、短期間でずれが生じる。それを訂正するのが、閏月である。つまり季節と暦を連動させようとする太陰暦には閏月が必須なのである。

しかしイスラーム暦はクルアーンの指定に従い、閏月を導入しなかった(閏年はある)。結果毎年毎年太陽暦、そして季節とは少しずつのずれを生じることになる(正確には一年で11.25日ずつずれる)。当然たとえば巡礼月であるズー・アル・ヒッジャも毎年すこしずつずれてゆき、春かもしれないし夏かもしれない。ズー・アル・ヒッジャが真夏に当たる数年間は巡礼が減るという現象があるとも聞く。ここに神の意思としての天体運行の理を枉げないという哲学を想定することができるかもしれない。そしてそれが暦である以上、人間が手をいれる行為である「閏」をさけているのかもしれない。これがイスラームの特殊性であるかどうかは議論が必要である。が、不思議なことに変わりはない。

注意すべきは、これをもってイスラームの原理性のみを強調することである。考えてみれば農事暦は必要なものである。であるにもかかわらず高度に抽象的な暦法を導入できるということは、一方ですでに実用性を備えた暦法が一般にあるということを示す。そのように考えれば、イスラーム暦はコプト太陽暦や、シリア暦、ユリウス暦など雑多に存在する暦法の摺り合わせという困難を乗り越えるため、一意の時間同定を得るための手段であったとも考えられるのである(しかし租税は当然一定季節ごとに徴収せねばならぬので、ヒジュラ暦による財務暦年は混乱を生じる。オスマン朝ではユリウス暦改変のルーミー=オスマン財務暦が用いられた)。

なお、付記する点が二点ほどある。

一つはイランの暦は一般に言われるイスラーム暦ではない。一般のイスラーム暦は太陰暦であるが、イランはイスラーム太陽暦(ヒジュラ太陽暦)という暦法を採用している。これはイスラーム革命以前にシャーがイラン太陽暦(ペルシア帝国暦)を用いていたため、革命後、暦法改変の混乱を避けたためともいわれる。イスラーム太陽暦は、かの「ルバーイヤート」のオマル・ハイヤームの手になるジャラーリー暦に起源をもち、暦法としてはわれわれの用いるグレゴリウス暦よりもの精緻である。

そしてもうひとつは小杉泰氏が指摘されるように、暦にも共同体重視というイスラームの特色が現れている点である。イスラーム暦はヒジュラ暦(聖遷暦)ともいうように、ムハンマドがマッカ(メッカ)からヤスリブ(マディーナ=メディナ)に移り、イスラーム共同体を開いた年を元年とする。ムハンマドの生誕年でないのは預言者はあくまで人であるという立場を示し、最初の啓示が下った年でもないのは、イスラームが個人の宗教であるだけでは不完全で、イスラーム共同体の宗教であってはじめてイスラームであるということを示すのである。

バイアと主権と公益と phase.1

バイアの淵源

イスラーム史上、支配者は「バイア」によって権力を付与され、王権の行使権限を得てきた。現在でも君主制をとるイスラーム諸国(サウディアラビア、湾岸諸国、マレーシア諸首長国、ブルネイ、ヨルダン、モロッコ)でも君主の即位時に「バイア」を行っている。

では、バイアとは何か。イスラーム法上、バイアはムハンマドが当時の共同体から首長権を得た時、アブー・バクルら教友らによって冊立されたことに由来し、正当な統治権獲得に必要な儀式である。統治権は、イスラーム共同体(ウンマ)から支配者が委任されて行使するものなのであり、「バイア」はその委任を表明する儀式である。歴代正統カリフはバイアを行っているし、史上の各王朝でも支配圏域内のウラマーや民衆の代表によってバイアを行ってきた。これはイスラーム法上の「イジュマー」(合意)の一つと考えられる。イスラーム共同体内において法的効力を要する支配権の行使にはイジュマーが必要である。すなわちカリフが権限をもつのはイスラーム共同体の合意=イジュマーによって正当化された「信徒の長」(アミール・アル・ムゥミニーン)であるからこそなのである。

このことは血統原理にもとづく王朝(ダウラ)観念としばしば対立するであろうことは、想像に難くない。ウマイヤ朝の最初期、ムアーウィヤから息子ヤズィードにカリフ位が移ったことはスンナ派とシーア派にわかれるそもそもの淵源である。しかしながら王朝は血統原理に基づきつつもバイアを捨てることはしなかった。手続き上君主はイスラーム共同体から統治権を委任されているにすぎないからである。たとえ現実的には血統原理に基づく権限の継承であったとしても、手続き的にはバイアを行うことによって、継承のたびにイスラーム共同体から支配権行使の委任をうけ、イスラーム法上の正統の支配者と見なしてきたのである(現代日本の二世議員も形からいえば同じ)。

イスラーム政治思想上の主権

イスラーム法上、主権(と考えられるような権能)は神に存する。これは絶対に見誤ってはいけない点である。では、統治権はなにに由来するのか。イスラームはこの点に関し、我々から見れば面倒ともいえるような言語操作を行っている。

まず、主権は神に存する。神の意思は人間には不可知である。人間に与えられた神の意思に関わる手がかりは啓典である。啓典はすなわちシャリーア(法)である。ゆえに神の意思は法に体現される。

法は解釈され、執行されねばならない。人間にあるのはその権限、すなわち解釈権と執行権である。ここで気をつけねばならないのは、この文脈において「人間」とは統治者個人をはじめとする個人ではなく、イスラーム共同体という集団であるということである。主権行使権はイスラーム法においてイスラーム共同体に存する。

さらにその後に、「バイア」によって初めて統治権がイスラーム共同体から特定個人に渡ることになるのである。統治の正当性がイスラーム法とイスラーム共同体によって二重に担保されていると同時に、統治権は二重の制限をうけているのである。

一般的な主権論

以下、杉田敦『権力』(思考のフロンティア)岩波書店,2000にしたがってまとめてみる。

ジャン・ボダンによって定式化された主権論(本人がそれを意図していたかどうかは別として)は、中世キリスト教モデルを発展させることで成立している部分がある。これについてシュミットは『政治神学』で、主権の絶対性と神を関係付ける議論がきわめて広く行われたということ、神と主権者の類似性について論じられていたということを強調している。実際に歴史学的にもマルセル・パコーの『テオクラシー』(神権政治)が描く至高の教皇権は、抗弁不能の絶対性無謬の権力であり、これと主権の関連性は疑ってみてもいいように思う。

そして教会から世俗へと場を移した権力のモデルは、王権神授説として結実することになった。王権神授説によって最終決定権力を握る王の支配の正当性は、神に結縁され、最終審級の権力となったのである。これが主権である。そして時代を下り、神学的な説明がもはや充分な価値をもてなくなると、主権は今度はホッブズが展開するような契約論に結縁されることになる。有名な「万人の万人に対する闘争」という自然状態からの脱却として、個々の主体は主体的権利を委譲し、権力の中心を生み出した。それが主権であるという議論である。ここで主権は具体的人格性を捨て去りartificial humanあるいはdeus ex machinaとなった。

さらに近代に至って主権は民衆に渡る。一応の領域内に限定されるとはいえ民衆は匿名の多数である。したがって主権の体現者はいなくなった。しかしあくまで絶対的な権限としての主権、無謬なる主権は、その保持者を転変させながらも神も王もいない世界で、生き残ったのである。以上が主権論の概要である(超端折りまくり)。

ここから派生する議論はいろいろある。たとえば絶対王政の主権論は歴史的には一円支配を目指す王や領邦君主の道具であったし、それに反対する中間的な貴族や都市の主張する多元的な権力論は、やや様相を変えながらも現代の自由主義の権力論にうけつがれている。

次回予告

比較の視点の導入は、主権論の見取り図を紡錘形として示した。頂点にある神から、王へ、王から民衆へと下降してゆく権力。その一方に神から共同体に降り、そして権力の委任というべつの方向のベクトルをもつ社会もあった。

ことなる文脈と論理、その中で、奇妙なまでに同じような論理で抵抗権は封じられてゆく。ホッブスとマーワルディーそしてフーコーを論じる次回「バイアと主権と公益と」phase2をお楽しみに。

卒論ネタきめる

卒論ネタがだいたい決まった。イラン立憲革命における「アダーラト・ハーネ(公正の家)」をめぐる公正論、である。このネタではすでにいくつか先行研究があるが、より比較政治思想史的な分析を加えて書いていきたいと思う。というわけでメモ。シーア派十二イマーム派のイランとはいえ、イスラーム法思想、政治思想上の歴史を無視して十二イマーム派のみに限定するのはおもしろくないし、そもそも比較的な観点なくしはその異質性も同質性も認識することができない。という言い訳で、スンナ派の統治論と「一般的」な主権論、権力論についてまとめ。第一回。バイア。昔の話をするのであるからとりあえずホメイニーの「ヴェラーヤテ・ファギー(法学者の統治)」論などは無視。

世界史の歩き方 第一回構想草案”North Wind” phase.1

というわけで、長らく溜め込んできた構想を徐々にはじめてみようというわけ。

はじめは銀の流れを追って全世界的なネタを提供しようと思っていたが、あまりに膨大な文献数になってこちらの道案内を相当に固定的にしないと書きにくい。そうすると自由さが失われてしまって面白くないので、断念。このネタはもう少し温めることにした。

で、第一回はテーマを固定せず、きわめて抽象的なものとして「北」を扱ってみようと思う。「北」という名の地域はこれまで辺境扱いされてきたわけだが、近年に至って境域を重視する立場から、きわめて活発な議論が展開されるようになっている。そこでこれを使ってみようというわけだ。

北方は雪に閉ざされた世界であるという我々の意識は、半分くらい正しい。近世の「北」はシベリア横断の厳しさを想像するまでもなく、厳寒と豪雪に閉ざされた世界である。しかし果たしていつでもそうだったかというとそうではない。幸運なことに我々は今、気候史の成果を手にすることができるのだ。13世紀から16世紀くらいの幅をとり、京都を出発し、北まわりに西進し、リガを経て、ケルンに至る道を想定してみたいと思う。一つ場面を移すごとに50年くらいずつ時代を遅らせてみようと思う。

はじまりは1250年前後の京都。使庁の手で捕らえられた悪党が、鎌倉、多賀城、外が浜を経て、渡島まで流されてゆく過程をまず追う。続いて、大都を発し、北東に進んだ大元ウルスのアイヌ征討軍にしたがってみよう。その後いったん上都まで帰還し、北方を視野にいれつつオアシス地帯を西へ向かい、ウラディーミルを目指そう……。しかしたどり着くことなく東北へと時空を飛び、シベリア・カン国に居を定め、その興亡に北辺にある意味を見つめたい。一応ここまで論文ネタはそろっているが、少々南より。まぁしょうがないのかな。さらに精査の必要有。最後のネタはやや時代を下るが「北の十字軍」を取り入れたいなと考える。なんとかして場をつないで、リガまで行かなければならない。もちろん前後の脈絡はないが、並べてみると意外とおもしろそうな気がする。

共同体と絆

  • 共同体とは、村を基準とした強固な「絆」の集合体という観念がなんとなく先行してしまう。しかしながら日本の近世村が、全国的に展開する職能共同体から、「町村制」下の地縁共同体への移行の結果成立したものとおもうと、先の観念は一方的に信じてはいけないものかもしれない。
  • イスラーム史においては、コーランに権力が由来することに応じて、統治者の公権力としての自覚は非常に強烈である。しかしながら公共事業(たとえば橋や道、水利施設)を執行することが実際に政治権力の仕事と認識される、このことが統治者の公権力自覚の一つのバロメータとして考えると「公」の担い手がどこにあるか、よりはっきりする気がする。イスラーム史においては、公共建造物はワクフ財というきわめて特異な形態をとることがおおく、比較を著しく困難にしているかもしれない。なお、公共事業を担うということに公権力の目覚めをみるならば、それは日本やヨーロッパでは中世末期、中国に至っては人民共和国期である。そして「公」が被統治より統治の側により多く担われているとき、国家はより国家らしくなる。そこに国家の本質がある。

一揆、ドイツ農民戦争、共同体、そして

ドイツ農民戦争と宗教改革を境としてドイツでは、中世的永遠の中にあった共同体と、均質な支配を目指す領邦権力との確執を基調とした社会構造の変革が始まる。

日本では応仁文明の乱が社会構造の折り返し点であるということがよくいわれる(たしかもとは内藤湖南か)が、同時に中世的特長としての封建制がドイツと近似しているという説も時に行われる。しかしながら共同体的特質を見る場合、その結びつきの強さが類似するとしたらむしろそれは日本の場合は近世村である。

たしかに社会-権力関係では、領邦国家の均質支配への道と、戦国大名による一円支配の確立は、きわめて類似しているといえよう。ただし共同体の最たる惣村と領主の関係はドイツ農民戦争の構図でみることはできない。むしろ日本の場合、この時期をもって、領主層、百姓層それぞれに「一揆」という形で共同体観念が成立し、それが近世につながると考えるのが自然である。

一円支配の確立という社会-権力関係の変化は同様でありながら、同時に進行した社会構造の変化は、ドイツの場合は共同体の崩壊に、日本の場合は共同体の確立へと向かったのである。そして「一揆」という言葉はやがて農民叛乱をさす言葉として変質するという事態に、共同体の担い手としての「百姓」ならぬ「農民」の成立をみることができよう。

公方観念の成立

公方とは日本史上、おおむね幕府将軍、とりわけ徳川将軍を指す。また室町においても「古河公方」の用法などもある。しかし「公」という字がからむこの言葉は単に将軍の人格そのものを指す言葉として成立したとは思われない。

それが、「公儀」へと変わってゆくその過程にこそ、日本の中世から近世への折り返し点がある。

信用決済と財の流れ

「太平記の時代」に指摘されていたことだが、中世日本で荘園公領制のもと本所が京都にあって、本所の領主そのものが荘園あるいは国衙に赴くことなく、在地や在庁に政務を任せたままで、それなりの収入を期待しえたことはおもしろい。

同時期のヨーロッパについて考えてみると領主はたとえ国王レヴェルでも領地に赴かなければ収入が期待できなかったのと比較すると、なにが原因だったのか。治安の良し悪しは必須条件であろうが、また在地が本所に貢納することを当然と考えていなければ、貢納されるはずがないのである。

もちろん関東や初期の室町殿が本所を保護したということもあろうが、それは保護されるべきであったわけで、どこからその観念が湧いたのか。そしてよく考えてみるとイスラーム世界におけるワクフ財からのあがりがきちんと配分されていたということもこれに等しい。神への寄進であるから当然なのかもしれないが、それが実力をもって横領されたりあまりしなかったのは何故か。想定される秩序はなんだったのか。

中世後期に入ると在地から本所への貢納も信用取引の形をとることが多い。鎌倉時代は関東と京都それぞれの領地が交互に散在していたため財の流れは二つの頂点をもちつつ重なり合って全国的に広がっていた。ゆえにその財の流れに乗ってっ全国的な信用取引が可能になった。ところが室町に入ると京都を中心とした財の流れと鎌倉を中心とした財の流れは領地の交換などもあって、重なりあうことが少なくなる。財の流れがなければ信用取引は難しくなるわけで、西国荘園-京都、東国荘園-鎌倉の信用決済はできても、京都-鎌倉の信用決済はできなくなる。このような状況は地中海世界でもありえたのだろうか。そこが信用決済の要であろう。