信用決済と財の流れ

「太平記の時代」に指摘されていたことだが、中世日本で荘園公領制のもと本所が京都にあって、本所の領主そのものが荘園あるいは国衙に赴くことなく、在地や在庁に政務を任せたままで、それなりの収入を期待しえたことはおもしろい。

同時期のヨーロッパについて考えてみると領主はたとえ国王レヴェルでも領地に赴かなければ収入が期待できなかったのと比較すると、なにが原因だったのか。治安の良し悪しは必須条件であろうが、また在地が本所に貢納することを当然と考えていなければ、貢納されるはずがないのである。

もちろん関東や初期の室町殿が本所を保護したということもあろうが、それは保護されるべきであったわけで、どこからその観念が湧いたのか。そしてよく考えてみるとイスラーム世界におけるワクフ財からのあがりがきちんと配分されていたということもこれに等しい。神への寄進であるから当然なのかもしれないが、それが実力をもって横領されたりあまりしなかったのは何故か。想定される秩序はなんだったのか。

中世後期に入ると在地から本所への貢納も信用取引の形をとることが多い。鎌倉時代は関東と京都それぞれの領地が交互に散在していたため財の流れは二つの頂点をもちつつ重なり合って全国的に広がっていた。ゆえにその財の流れに乗ってっ全国的な信用取引が可能になった。ところが室町に入ると京都を中心とした財の流れと鎌倉を中心とした財の流れは領地の交換などもあって、重なりあうことが少なくなる。財の流れがなければ信用取引は難しくなるわけで、西国荘園-京都、東国荘園-鎌倉の信用決済はできても、京都-鎌倉の信用決済はできなくなる。このような状況は地中海世界でもありえたのだろうか。そこが信用決済の要であろう。

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