男色史~近代homosexuality観の成立と日本における男色の文脈

本文章は、高校生の「作文」です。学術的な閲覧には適しませんので、そのむねご了承ください。参考に引いた文献は正確なものですので、詳細はそちらをご覧ください。ものによってはずいぶんと時間がたって参考にもならないものもあるかもしれません。特に原始宗教における男色的要素などはきわめて論争的問題を含んでおりますのでご注意ください。一応興味があって書いたものですから、更新していきたいのですが、興味が薄れてしまうとどうにもこうにも……。(2002年05月05日追記)

目次

1.はじめに

現在、日本において男と男の性愛関係への見方はどのようなものだろうか。やはり、気持ち悪さという感覚の先行であろう。これは、同性愛を、生殖の結びつかない性行為として排除したキリスト教を底流に持つ、近代西欧文化の洗礼を、既に無意識に受け入れていることを意味する。

歴史的には男性同性愛が、性的病理、異常性愛という見方がされた時代は、むしろ非常に限られる。近年、この男と男の性愛関係への関心がとみに高まり、ゲイたちへのまなざしは多様化してきた(その発端は耽美小説、やおい小説、あるいはこれらの小説を主に取り扱う代表的な雑誌『JUNE』からJUNE小説ともよばれる少女向けのホモ小説、それに類するコミック等の人気、またフェミニズムの高まりに刺激されたと思われるゲイリベレーションの運動にある)。しかし一見普遍的な同性愛者gayという概念は、実は、ある特定の歴史上の産物なのである。今日のゲイとは違った男性同性愛の文化が、地域によって様々な形で存在していたということを忘れることは出来ない。本稿では、12世紀から16世紀に至る中世イングランドと、日本における伝統的な『男色』を対比させ、それがどういうものであったのか、ということを述べてゆきたい。

さて、ここで読者諸賢には、まず意識の大変革を求めねばならない。それは何か、というと、古来からの男色者たちは、社会の差別の視線にたえながら逸脱した少数者として自らの恋を切り開いていったわけではない、ということだ。むしろ女色に対する男色として、或一つの誇りを持っていたかのようにさえ見えるのである。当然、文化・現実への表象も異なったかたちをとる。

違いの一つを言えば、男色においては、男性の相手には、恋の相手として、主に美少年が求められたということがある。男性同性愛は必然的に少年愛という形を取っていたように思われる。非常に重要な示唆である。男性は男性を男性として愛したのではない。少年として愛した、という考え方が可能だ。あるいは、少年の両性具有的性格がその背景にあったかもしれない。さらに両性具有のもたらす何らかの聖性が求められたのかもしれない。個人の男性が個人の男性を男性であるがゆえに男性として愛すという現代の文脈は、ほとんど無意味であったろうことは、決して想像に難くはない。

これらを明確に論述することは不可能であろうが、本稿では、近代西欧文化によって歴史の谷間へと消えていった、「男色」というものの歴史と、その美意識、また男色というものが構造に関わった社会機能というものについて述べることにしたい。価値観というものは、生まれつき持つものではない。その時代の社会的文脈に従って、絶えず変動するものなのである。

2.作られた概念としての同性愛者

同性愛homosexualityという言葉*1がある。また、ゲイ*2という言葉がある。

これらの言葉は、現代の日本では明らかに「悪」という価値と結びついている。しかし、日本においては近世に至るまで、特に不思議ととることはなかった。ということはやはり近代の西欧の文物を摂取する上で作られたと考えるのが正しいようである。私たちの持つ同性愛=悪、罪という意識は一体どこに根ざすものであろうか。まずこの問題について考えてみたい。

2.1. 西洋での同性愛=悪のイメージの成立

「汝,女と寝るごとく男と寝るなかれ」「憎むべきことなり」(レビ記)。キリスト教(あるいは、同じセム的一神教たる、イスラームやユダヤ教を信じる啓典の民)の見方は,この一連の記載に集約されている。新約ではパウロ書簡「コリント人への第一の手紙」でも示される。ソドムとゴモラのエピソードも,これに寄与するところである。聖アウグスティヌスは,生殖のための性交渉,ゆえに結婚を許されるという考え方を示す[聖アウグスティヌス1972]

しかし,古典古代ギリシアにおいて,プラトーンが築き上げた精神の高みの世界『饗宴』の同性愛というものは,地中海世界に,より深く根付いていた。

ジョン・ボズウェルはレビ記の記載に関しては,道徳の教えではなく,むしろ清潔を守る,すなわち近づくべきことではない,区別されるべきこと,けがれ程度の意味であると解釈し,存在すべきでないことと見るべきではないとし[ボズウェル1990],さらに,阿部謹也は,むしろ15世紀はじめのペストにおそわれ人口の激減したヨーロッパで,教会が多産の奨励のために,先のアウグスティヌスの解釈を用いたため,この教会政策に反する同性愛やマスターベーションは悪であるという考え方が成立したという[阿部1991]。では、そうであったとして、この考え方にしたがって社会はいかに同性愛者を見たのであろうか。エリザベス朝イギリスに関する同性愛の秀逸な研究であるアラン・ブレイの考察[ブレイ1993]にしたがって概観してみよう。

2.2. 同性愛の社会史-14C世紀イギリスイングランド

同性愛への形而上学的立場

脚注に示したとおりブレイのみるエリザベスI世イギリスイングランドにはhomosexualという言葉は存在していない。そういうことを指す言葉として、当時使われていたのはbugger*3やsodomiteである。ところが、これらの言葉は同性愛のみをさす言葉ではなかった。獣姦や不義密通など性的犯罪、あるいは淫蕩なことを広く含んでいたのである。このことの背景には、同性愛も一般的な概念である「淫蕩」という「人間本来の邪悪な堕落状態が陥りがちな」罪の一つに含まれていた、というイメージの構造があった。同性愛は淫蕩の一つの形だった*4

文字史料では同性愛のもつ象徴世界の位置を「ローマン・カトリック教徒」「異端」「魔術師」と同じような場所に捉えていた。この場所というのは、天国にも地獄にもつながらない場所だった。そんな場所は宇宙にはない。だから、そのような場所は、神によって創造された宇宙の一部ではなく、その外側に位置するもの、と捉えられていたのである。さらに抽象的にいうと、神による秩序を解体する、なにか非常に恐ろしく、認識をさけるような場所にあるものだったのだ。アイデンティティという観念のない時代だった[阿部1991]。「個」が存在しないのだから、各自の精神世界は、すべて神の下につながった同一の宇宙であり、それが個人個人の中に丸ごとそっくり存在していたのである。ところが、同性愛は、そこには存在しない異質なもので、むしろ神の下につながった精神世界と並立する形で存在する無秩序であったのだ。その無秩序は、不幸の源で、「ソドムとゴモラ」のエピソードのように、災害を引き起こすものでもあった。唯一秩序の精神世界なのだから、ある個人が無秩序を引き起こすと全体の宇宙に影響が出る。そう考えれば、同性愛は絶対に存在してはならないものであった。

以上の二つの観点から

  1. 同性愛は、淫蕩の一つで非常に陥りやすい堕落の一つである。性行動の堕落はどこにでもあるから、非常にありふれたものと認識される。
  2. ところが同性愛は、唯一の精神世界を破壊する無秩序の一つで、この意味からは絶対に存在を許されないものであった

のであるといえよう。

同性愛は、「ものごとを認識する心のメカニズムや当時のキリスト教に組み込まれた世間一般の統一的意識とも、対立するもの」であった。こうした中で同性愛はどのようにして存在し続けたのだろうか。

1つは古典的な哲学や文学の文脈をもって、キリスト教による同性愛の弾圧という、大きな文化的重圧に対処するものであった。この方法は正面を切ってキリスト教文化を否定せず、他の価値観の存在を示唆するものなので危険は少なく、効果的な現実対処であった。しかし、知的操作による解決には限界が伴う。そこで当時の人がとったのは次のような非常に単純で、しかし構成からは、なかなかわかりにくい解決法であった。それは「現実に対して目をつぶり、自分にのしかかる社会の圧力と自分の異常とされる性行動とを、両極に分断して結びつけないでお」くという方法である。「社会も個人も、神話や象徴としての同性愛と日常の同性愛との結びつきを最小限にとどめ、同性愛の行為はほとんど別の観点で捉えて理解するようにしていた」のである。裁判所も同性愛の規制には、本気で取り組まなかったのである。同性愛は嫌悪されながらも、具体的に識別されることなく社会構造の内部に存在した。その存在によって、何らかの利益が社会にもたらされていたのである。しかし、その利益の大部分は説明しきれないし、もし説明されても、その利益が、原因であったのか、あるいは結果であったかはわからない。

社会構造と同性愛の位置

第一に「家」(household)の中の使用人に見られる。当時も「家」は直系親族によって構成されていたから、傍系の第2世代は、自分の「家」をたてることになる。そのためにはある程度の資金ないしは経済力が必要だから、他の「家」で使用人として働くのである。ある共同体では人口の13.4%が使用人であり、28.5%の世帯には使用人がいたという。この割合から考えて、下層の家でも使用人がいたと考えられる。使用人にとっては「家」を持つときが、結婚のときであるから、未婚であった場合が多いのは推察される。自分の家がもてるようになるのは30代前後であるから、それまで性的交渉の場は非常に限られていた。非常に巧みな産児制限といえよう。裁判所は、結果として子供をなすことになる異性間婚前交渉には強い関心を持っていたから(孤児院の運営費用の増大を抑えるという視点から)、使用人としては性の捌け口を別に求めることになる。そこでその捌け口の一つとして、使用人の間の同性愛があらわれるのである。家父長制のもと、「家」には厳格な上下関係があった。そのような関係の中では、年長の使用人が年少のものを従えることができた。このことも使用人の同性愛の一因であったようである。同様に、家父長と使用人との関係も見られる。

第二に教育制度に見られる。同様な理由で未婚の教師が家父長と同じ立場に立って生徒に臨み、その結果としてやはり同性愛が現れている。

第三に売春である。異性間と同様に売春宿からゆきずりの売春まで、多様に存在していたようである。また使用人として第一の形で男娼を雇うという形態も見られた。ロンドンでは劇場の役者が男娼のしての役割も果たしていたようだ。

以上を見ると同性愛は非常に多様な形態をとっており、また社会的に極端な形で現れるサブカルチャーでないことが分かる。この社会の日常に生きた人々は、どんな目で同性愛を見ていたのであろうか。彼らは2.みたような、形而上学的な同性愛への恐怖心をもっていた。しかし、その一方では、社会には様々な形で同性愛が存在した。そして彼らは、それに対して「黙認」のような態度をとったのだ。

社会構造の変革と「同性愛者」の誕生

この構造は17世紀半ばまで、何ら変わることのないものだった。ところが17世紀末に至る50年間に大きな変革が現れるのである。18世紀初頭ロンドンに、「モリー・ハウス」という性的交渉もできる、同性愛者の接触拠点が現れる。こういう場所は一般社会から独立した価値観、独自性があり、その場所と社会全般を区別することができた。つまり「文化」=サブカルチャーとしての同性愛の出発である。もはや同性愛は、ただの性行為にとどまらなかった。新たな形態は同性愛の意味を急激に拡大させ、また古い形態に比べはるかにめだつものであった。

モリー・ハウスにおいて、客は個人と個人として対等に接した。こういう接し方ができるようになるためには、「自分は自分である」という個人の意識、そしてまた自分が同性愛者である、という意識が必要になってくる。

当時、モリー・ハウスに対して行われた弾圧の記録がいくつか残っている。このことは社会も弾圧の対象としての存在を認めたという事である。ようやく、人々の頭に「神のもとに統一された唯一秩序の精神世界」ではなく、「多様な価値観」をもつ「多様な存在」が構成する「多様な精神世界」の意識が生まれてきた。

つまりブレイは現在の特定の歴史的産物「同性愛者」はここで生まれたといいたいのである。ゲイという言葉は「淫蕩な」に語源を持ち,ゲイ・リベラレーションという運動を持つ。イングランドにおいては、現代日本の同性愛者たちはここにその原像を結んだといえよう。

では,近代以前の日本の同性愛の姿を見て行こう。男色という言葉で表される「それ」である。

3.男色という言葉

井原西鶴の『男色大観』のように、日本では「男色」という言葉が用いられた。

男色とは、男性同性愛を指し、英語でのhomosexualityにあたる。しかし、そこには日本人の男性同性愛への考え方が現れている。すなわち、「色」としての男色である。

「色」は日本に古くからある概念だが、愛や恋愛という言葉は明治時代の輸入品である。

「愛」はloveの訳語として北村透谷によって定着され、さらに精神的関係をより強調した形の概念として日本に受け取られた。そして現在用いられる「恋愛」という概念は、異性間にしか成立しない言葉でもある[本田1994]

他方、「色」という表現は、恋において肉体関係と精神的関係を明確に二分することなく前者をも包含し、かつ、それを抑圧したり低俗と見なさない点に特色がある。そしてまた男と女の恋にかぎらず男と男の恋をも含めたものであった。これをさして「色道ふたつ」という表現が生まれたのもそのゆえんである。

色道とは無秩序な性の欲望を噴出させる道ではなく,書道,華道,茶道など様々な道を動員し,人生のひとときを美的な,非日常的な時空間にするための手段だったのである[佐伯1992]。そしてこのことがゆえに性は俗ではなく,聖の領域にあったことを読みとることが求められるのである。

こう理解すれば,男色というものが,芸能と深く結びつき,宗教の場で最もよく見られたこと(このことには宗教と芸能の関係も考えられる)はなんらのふしぎもないことではなかろうか。

4.男色の歴史

4.1.その発生

日本の男色の文献上の初見は,『日本書紀』神功皇后摂政元年二月条,小竹の祝と天野の祝である。書紀からは読みとれぬが,祝という神に近い存在の間に男色が存在したことは,日本社会に古くから根付くものであることを示しているのではないだろうか。

この回答は実は既に文化人類学者の間から提出されている[吉田1992]

吉田敦彦は,縄文中期以降の「石棒」という男性器をかたどった祭器を作った日本原始宗教文化が,メラネシアに広がる精液信仰と同じ文脈の中にあるのではないかという。ここで何が男色に関わってくるかというと,その信仰に特徴的な男性の階梯制度における成人式をはじめとした通過儀礼における少年への精液授与である。

例えば,ハートの研究ではニューギニアのマリンド・アムニ族では,男性はその成熟に精液の寄与が絶対に不可欠とされた。少年は成熟の兆候が見られると,年上の男性と共に暮らすことを義務づけられ,その生活の中で同衾し,肛門性交によって精液をふんだんに「食べる」ことを求められる。さらに,これを数年間続けたあとソソムと呼ばれる成人式にのぞむ。そこでは大勢の大人たちが少年たちに,次々と精液を体内に送り込むという儀式がおこなわれるのである[杉島1987]

もし,日本の原始宗教がこれに近い形を持っていたとしたら,古くから男色が見られるのも何らの疑問のないところである。恋の衝動よりも,むしろ信仰の制度としての男色が先に現れたのだと見たい(ここで既に,成人以前の「少年」がその舞台となることは興味に値する)。

4.2.中世の稚児と男色

恋としての男色は,僧侶と稚児という形で,中世寺院に多く見られはじめる。稚児とは,寺院において僧の身の回りの世話などをし,仏道に関して学び,また歌舞音曲の伝授を受ける少年を指す。出家を目指す見習い段階であるが,実際には教育のために寺に入れるという意味合いが強い。

院政期の院の近臣たちは稚児上がりのものも多く,院と深い関係を持っていた。藤原頼長『台記』にはその奔放な男色関係の多くが描かれる。

さて,稚児男色の発生因だが,仏教の女人禁制の中での性のはけ口という考え方がなされている。実際に,それが大部分を占めると思われる。稚児による性欲の処理は所詮女子をあいてとするのと何の変わりもないことである。源信は『往生要集』で次のような警告を発する。

また別処あり。多苦悩と名づく。謂く,男の,男において邪行を行ぜし者,ここに堕ちて苦を受く。

源信においては,当然に性愛,性欲の禁止という方向を見て取ることが出来るのである。しかし,その正論に対抗して,なぜ男色の隆盛が起こったのだろうか。

ここで注意しておきたいのは稚児=少年を神仏の顕現と見なし(比叡山に初めて登った最澄は十禅師神の化現した少年と出会った。また『稚児観音絵巻』をはじめとしたいくつかの絵巻に見られる),稚児との肉体的交わり自体を神聖視する宗教的側面もあったことである。このことは宗教が,男色において大きな機能を果たしていることをさらに裏付けよう。つまり,仏教は性欲の処理としての男色を聖性との関わりの中で許容し,さらに男色の中の美意識にまで介入して行くことで,それを仏教自体の一環となそうとまでする。節を改める。

4.3.男色の美意識

中世の稚児物語においては,主人公(主に僧侶だが)はほとんどの場合,桜の木の下で美少年と出会う。美少年の恋と死が,現世のはかなさのメタファーとして現れているのである。仏教が無常というものを美しい者の滅びやすさという面から説くのに利用されているのである。

これはそのまま少年愛の美意識,また少年美の追求の大きな要素として後代に受け継がれて行く。すなわち,少年の聖性(両性具有に起因するものともいえようか)と,一過性である。世阿弥の『風姿花伝』のなかでの「少年は時分の花」という言葉がなによりもその心を表す(世阿弥自身,藤若として足利義満に侍っていたことはすでにあきらかとされる)。桜がその象徴とされている。

さて,重要なのは,男色においては子供が産まれないことである。このことも美意識の一つの遠因となっている。子供は,近代の子供観から離れても扶養されるべき者であって,親に対して必ず子供であることは,変わらない。すなわち,子供が想像させるものは,家であり,経済なのだ。そして,子供がいないということは,すなわち断絶を意味し,生そのものが一過性のものとなる。男色は,所帯じみた生活をいとい,限りない詩的ロマンを追う傾向があるのである[デュヴィニョー1983]

同時に女性=穢とまじらわないということは,汚れない,つまり「浄」でありたい(耽美小説などで主人公が「汚い」という言葉に対し激烈な反応を示すのは,その一端でもある)という欲求を満たしもするのである。

男色の美意識=少年愛の美意識とは,主に滅びやすい者へのロマンティシズムである。人に非日常的な美のきらめきを見せるのが芸能の本質であるとするならば,その出発点は,根元的な日常原理の否定である性の生殖という目的からの解放と不可分に結びついている筈なのである[佐伯1992]。これが,江戸期を通じての殉死,念者の仇討ちといったものへつながり(これは次章で述べる),やがては,昭和期の一部軍人たちに見られるような,君主への精神的な同性愛,プラトニズムと男色の意識の融合という形で現れることになる。

また,芸能の方面では,色道から性を排除していく課程で近代歌舞伎が成立したと考えられよう。

4.4.近世の衆道

世阿弥が能を大成すると,それをうけて男色とその美意識は,芸能に乗って大衆間に広まる。多数の謡曲が生まれるのもこのころである。

戦国期に入ると武士たちの間に,男色が目立って流行しはじめる。そこには,女性の排除による男性集団の結束の緊密性の確保,より高度な礼と義の関係を築く,という新しい目的意識=尚武の気風があった。

江戸時代には,衆道という言葉が用いられるようになってくる。衆道は男色にさらに武士道を加えたものと理解されよう。男色の美意識と思想と武士道の思想は実に近いものがあった。義として浮気を堅く戒め,命を捨てる覚悟(葉隠)。衆道が,義兄弟の形を伴うのもそのためである。

これは二君に見えずという思想=主君への恋心に通ずる。それゆえに衆道の美意識は,「刀」に尽きるのである。

桜の下,白い着物をつけた美少年,切腹による赤い血とはまさにその文脈に受け継がれたイメージである。江戸初期,死を賭した恋として,仇討ち,殉死が頻発したのではなかろうか。

4.5.歌舞伎と売色

また,江戸期は男色においても売色が大きく広まった。「陰間(舞台の控え)」という言葉のとおり,若衆歌舞伎の年少女方によるものに始まった。売色では,衆道と異なり,複数の相手と交渉を持つことが可能である。風紀紊乱のために若衆歌舞伎は禁止されたのである。

歌舞伎においては男色を強調しすぎるべきではなかろうが,文化の一翼を担ったことは記憶にとどめて良いことかと思われる。美意識は文化を左右する。

4.6.開化の灯の下で

殉死が秩序への反抗という構造(殉死すれば社会構造=身分の違いを打ち破って主君との一体化が可能になる)を持つことに気付くと,幕府は衆道をも禁圧の対象とした。同時期,衆道は,戦国の遺風=蛮風として,たおやかな文治の世にはなじめず,次第に衰えて行く。

しかし明治に入ると再び学校の寄宿舎を舞台としての流行が起こる[氏家1995]。歴史の立場からは薩摩に残る尚武の気風が東京に入って来たためであると考えられている。

鴎外のヰタ・セクスアリスをはじめ,川端,里見,谷崎,志賀といった文学者たち,熊楠翁や折口といった,初期の文化人類学者たちに影響を及ぼしてゆくのである。西欧の近代科学(自然科学の手法を継承した知の体系)にたいして大きな力を持つ彼らが男色の系譜に連なるということは,はたして何を意味するものであろうか。単なる偶然ではなかろうと私は思う。

4.7.美意識のかげに

美意識にこだわりすぎることで,社会構造の陰部に関わることを見落とす危険が,近年歴史学から警告されている。

例えば,寺院の稚児には貴族・武家の出自の者とそうでない者がいた。前者は,やがて元服あるいは得度して行くのだが,後者は,どこからかさらわれてきて──あるいは人買いに買われて──(謡曲「花月」で花月が天狗にさらわれたという話もこれを暗示する[細川1996])稚児となった者たちである。彼らはその出自ゆえに元服も得度もできない。垂髪のままで一生を過ごす──つまり成人することが許されない──。僧の寵愛が薄れたとき,彼らは生きることが出来るのであろうか。答えは否である。捨てさられた者として一生を童形で過ごすか,あるいは自殺という道だけを持っているのである。

僧と稚児,それと同様主君と小姓,男色関係にも権力が潜むということを忘れてはならない。

脚注

  1. 同性愛homosexualityとは1896年にハンガリアの医師,ベンケルトBenkertによって,男女を問わず,同性のものを対象とする性的趣向として分類学上命名されたものである[デュビーほか1993]↑*1

  2. ゲイgayという言葉は元来は放蕩を意味する言葉である。↑*2

  3. buggerという言葉は、原義はブルガリア人に対する蔑称という。↑*3

  4. ブレイは「現在、同性愛はサブカルチャーとして独立しているが、この時代には独立した「文化」としての同性愛は存在していなかった」という。今日の同性愛が価値観からはずれた逸脱を自覚する存在であってサブカルチャーであることは確かである。しかし,はたして文化として存在しなかったのだろうか? 後述するとおり,日本ではむしろ「文化」として,サブカルチャーでない男色が花開いた。↑*4

参考文献

  • 阿部謹也 1991 『西洋中世の男と女』筑摩書房.
  • 聖アウグスティヌス 1972 「結婚の善」『アウグスティヌス著作集7──マニ教論駁集』(坂口昂吉・金子晴勇訳)教文館.
  • ボズウェル, ジョン 1990 『キリスト教と同性愛──1-14世紀西欧のゲイ・ピープ』(大越愛子・下田立行訳)国文社.
  • ブレイ, アラン 1993 『同性愛の社会史』(田口孝夫・山本雅男訳)彩流社.
  • デュヴィニョー, J. 1983 『無の贈与──祭りの意味するもの』(利光哲夫ほか訳)東海大学出版会.
  • デュビーほか 1993 『愛とセクシュアリテの歴史』(福井憲彦・松本雅弘訳)新陽社.
  • 本田和子 1994 「恋愛」『歴史学事典第2巻 からだとくらし』弘文堂.
  • 細川涼一 1996 『逸脱の日本中世』洋泉社.
  • 佐伯順子 1992 『美少年尽くし』平凡社.
  • 杉島敬志 1987 「精液の容器としての男性身体」『文化人類学(アカデミア出版会)』7.
  • 氏家幹人 1995 『武士道とエロス』(現代新書)講談社.
  • 吉田敦彦 1992 『昔話の考古学』(中公新書)中央公論社.

6.変更履歴

2001-07-28

全体にマークアップを大幅に変更しxhtml1.1に適応。琴糸集時代のものはAnotherHTML Lintで-300点台のすさまじい点をたたいていた。参考文献リストを正確にした。またとりあえず目に付いたミスを修正<さすがに高校時代の作文。

  • イギリス→イングランド
  • エリザベス→エリザベス一世
  • 機種依存文字の廃止

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