小川克彦『デジタルな生活』

「日本の現代」シリーズ。本巻は家電や携帯電話、パソコンなどを通じて、1970年代ころからの社会の「個人化」(個人主義化ではない)が進んでゆくという視点をモチーフに現代日本の技術史・社会史を叙述する。それなりに細かい技術的解説もあるが、常に「日本の現代」というキーワードが著者の頭にはあったらしく、具体的かつわかりやすく話が進められており、IT史が陥りがちな単なる個別事例の集積や理念の列挙という失策を犯していない。この点が非常に高く評価できる。

とにかく読んでいて驚いたのは、本書の叙述の半ば以上が、ほとんど常識として私の頭に入っているということである。換言すれば、さして目新しいことがなかったということだ。普通、専門外の本なら概説書であっても目から鱗という記述がたくさんあるのだが、本書を読んでもそれがなかった。コンピュータ利用のサポートなぞをアルバイトでやっているわけだが、当人が思っている以上に深みにはまっているのかもしれないと思った。

酒井あゆみ『売る男・買う女』

本書は出張ホストを中心に、ウリセンを生業とする男たちへのインタビューを集めたものである。ウリセンというのは1990年代半ばまでは、新宿2丁目で男性たちに春を鬻ぐ少年たちを指したが、その後ホスト・ブームなども経て女性たちにも買われるようになる。現在彼らはもはや男にも女にも売る存在となった。本書はこのような傾向がなぜ生じたか、それを男性たちに聞くことで知ろうとするものである。

残念ながらそのような著者の意図は成功しているとは思えない。インタビューを通じて「売る男」がどのような意識で売っているかはわかるし、彼らが「買う女」にどのような視線を向けているか、あるいは女たちが彼らをどうして「買う」のかについてどのように思っているのかという、それぞれの解釈は知ることができる。たとえば、彼らウリセンの世界では、男に買われた後に風俗にいって「禊ぎ」を済ませることが多いというが、女が男を買うのはその逆のパターンが多いといった解釈である。それはそれで面白い。

しかし著者はなぜかそれを総合的に分析し一定の結論を出すことをしないのだ。結果としてインタビューの垂れ流しとなっており、資料的価値はあるかもしれないが研究としては物足りない。もちろん「売る女」であった著者独自の視点は非常に際だった陰影を彼らの証言に投げかける。しかし、それも段々と著者が共感できるか、そうでないか、という方向に向いてしまい、最終的には自分語り/自分探しに近い叙述となってしまう。この点が残念であり、以前に読んだ同じ著者による『売春論』への違和感は本書にも共通するものである。

喜多由布子『アイスグリーンの恋人』

本書の著者は「帰っておいで」で「[[らいらっく文学賞]]」第25回を受賞した北海道在住の作家。本書も札幌薄野を舞台に、交通事故で片腕をなくしいまや高利貸しとなった男性と、不幸な生い立ちを持ちつつも純真に生きる女性の恋物語。泣き系の純愛物というよりは、すこし昔の文学よりのタッチで描かれる。舞台の結節点となるクラブ沙羅の不思議さ、そして随所に織り込まれるが、しかし主張するほどでもない、北海道の気候、光景、習俗への愛着の語られ方が実に好感が持てる。ぶっちゃけトラウマ系の話ではあるので、群を抜いた傑作ということはできないまでもひまつぶしにはなろう。

齋藤慎一『戦国時代の終焉』

以前から気になっていたもので、ようやく読んだ。タイトル(と副題)から思い描いていたとおりの良書。1574年の豊臣政権成立を決めた小牧・長久手の戦いと同時期の関東では沼尻の戦いが発生した。通例、本会戦は長陣にわたっただけでさしたる成果もないもので、北条氏と北関東諸族で戦われた一連の合戦の一つとしてしか評価されてこなかった。しかし、著者が本会戦の史料収集を進めるうちに当事者以外にも中央政権側や周辺諸侯など総計850点近くの史料が収集された。これらの史料批判により、著者は本会戦を小田原北条氏の関東一統戦略における突破口であったのみならず、東国における小牧・長久手に匹敵する会戦であったとする。つまり、織田信雄徳川家康側が北条氏であり、一方の豊臣側が佐竹・宇都宮をはじめとする北関東諸族であったというのだ。

小牧・長久手ののち紆余曲折を経て徳川は豊臣大名化するが、北条は沼尻の合戦以降に得た政治的優位を利用して一挙に関東一統を図る。徳川という緩衝地帯の存在が、北条をして豊臣の圧力をやわらげ、結果的に惣無事令に反する秀吉の敵とさせてしまったのである。北条氏の滅亡に関しては、通例沼田真田領名胡桃城奪取事件がその契機とされるが、実に北条は小牧・長久手から一貫して秀吉の敵として秀吉側からは見られていたということが語られる。沼尻の戦いと小牧・長久手の戦いから北条氏は豊臣大名化するか滅亡するかの二者択一を運命づけられていたのである。これが「戦国」の終焉であって、もはや関東の半独立という「北条の夢」は少しく時代に遅れた物となってしまっていたのである。

以上のように本書は天正十年代、関東の政治史および関東=中央関係史を全面的に書き改める意義をもつものである。さらに藤木久志の諸論考の成果、あるいは使者の上洛にも莫大な資金がかかること、その徴収法などについてもわかりやすく散りばめ、大河ドラマ的な戦国イメージを多少修正する啓蒙的新書としての役割も十分に果たしている。新書とはかくあるべし、という近年珍しい出版であった。

舛本哲郎, 小須田英章『JR語の事典』

Wedgeの編集者によるJRオーバービュー本。私は乗務用語などのジャーゴン集だとおもって借りてきたのでアテがはずれたわけだが、テツではなくて、かつJRのことを知りたい人には有用かもしれない。鉄分の濃い人にとってはあたりまえのことしか載っていないので読む必要がない。それにしても今日のJRの変わり様はどうだろうか。なにが生活総合サービス業か。エキナカなどといって駅内で商売っ気を出すなど鉄道業の本旨を忘れたかのような腐臭が漂っている。駅に人を囲い込んで改札から出さず、エキナカのチェーン店に人を呼び込もうとする試みで、やはり駅前はさびれ、ますます日本の地域の多様性は失われる。地域のあり方を維持したまま、いかにして地域間の風通しをよくしてゆくかが公益をも担う鉄道業の役割ではないのか。インフラが鉄道か道路かというだけで、郊外道路沿い大型店とエキナカで変わるところはない。せめてパチンコ屋を作らない良識くらい期待するのは無駄なことだろうか。

『アボカド バンザイ!』

[[アボカド]]を多少ポップ風味に紹介する本。100ページ強で1400円と少々高いが、ブックデザイン・レイアウトにすぐれた良書。完全な料理書ではなくて、レシピは全体の半分ほどでちょうどよい分量。内容も2人分表記となっており、またアボカドは1/2からの使用なのでそれなりに実用的。日本のアボカド農園の話やアボカドグッズなどの紹介、種から育てるアボカドのコーナー(観察Blogをつけている人がいるらしい!)もあって楽しい。書棚に飾れる料理本である。

福井県丸岡町編『日本一短い手紙-「愛」の往復書簡』

福井県[[丸岡町]]の[[一筆啓上]]シリーズ。今回のお題は「愛」。ブレがでそうなテーマだとおもっていたが、これが意外にさまざまな切り口からのおもしろい投稿を促したようだ。いつもどおり、笑えるものから、読むのもいやになるくらい重いものまである。時間つぶしによいだろう。

里中哲彦『まともな男になりたい』

まともな男になりたい、と思いつき、まともな男とはなにか、との自分語りの書。まともな男はそもそもこんなもの書かないだろうと思うのだが。自分のことを「小生」と書いたりするのもこっぱずかしい。さほどおかしなことを言っているわけではないのだが、随所に登場する名言の引用(やたら維新期が多い)や、借りてきたみたいで文章の流れを断ち切る衒学味のある漢語の使用などあまりほめられたものではない。阿部謹也の世間論や福澤先生の思想なども引かれるがどうも曲解しているふしもある。言いたいことはほとんど[[福田恆存]]が言っているようなので、そっちを見たほうが幸せになれるだろう。

金子雅臣『壊れる男たち』

セクハラ本。著者は東京都の労働相談に長年携わった人。本書はその中のエピソードを紹介して、セクハラ問題を「女性問題」の枠ではなく男性問題として捉えなおす試みを行うものである。事例とそれを読み解く「第2章 男たちのエクスキューズ」が全体の半分を占める。

男たちは、私から見ればほとんどあり得ないようなDQNっぷりを発揮する。たとえば「あれは同意だった」というエクスキューズがよく登場するが、これは女性側の本気の抵抗をも「女性はものをはっきり言わず、気を引くためにいやがってみせるもの」という本質主義的蔑視感が背景にあるという。たしかに読み進めば読み進むほど、人としての存在以前に女性であることをまず持ってきてしまい、その視線で女性を見る男性のあり方が浮き上がってくる。

ことの背景には、男性の性的逸脱・放埒に寛容な社会の存在と、その寛容性の後退があったことが指摘される。すなわちセクハラは例によって社会問題化しただけであって、存在そのものが急増したわけではないということである。おそらくその通りであろう。しかし、見るところ、弱まったとはいえ、いまだに社会は男性の性的逸脱に寛容である。たとえば酒席のあとの二次会に上司が「フーゾクにいこう」などと言いだし、そこで反対した部下を「空気が読めないやつ」として扱うなどの事例は、私も時に友人から聞くことがある。「浮気は男の甲斐性」などとうそぶく男に、これが二重のセクハラとなっていることなど理解できないだろう。部下の男性へのセクハラであると同時に、「空気」なる放埒さを当然とする思考自体が、職場に対するハラスメントであるのだ。

ジェンダーフリーは急進的フェミニズム同様、非常に嫌われる言葉である。しかし、本書にあらわれる男性たちの行動の前提となる、社会的慣行およびその解釈の是正と考えるならば、十分頷けるものである。男女共同参画を考える際、どうしても男性中心社会への女性の進出という点からばかり論じられ、そして、名簿の読み上げ順だとかそういう形式面ばかりがやりだまにあげられてきた。だが、もう一方にも本質があることを忘れてはならない。すなわち女性中心とされてきた世界への男性の参画である。いまだ、主夫としてのあり方をまじめに希求する男性は誤解を受けている。さらに男性社会へ進出した女性からもあざけりを受ける。これもまたセクハラに近い思考の視線にもとづくものだ。ジェンダーフリー概念は「男性的生業」の女性への開放を意味するのではない。「女性的生業」の男性への開放もまた意味する。

話が逸れた。男性の性的逸脱・放埒に寛容な社会がセクハラの蔓延を生んだのは事実だが、一方でそもそも男性が性的逸脱・放埒に走りやすいのかどうか、という点は議論が必要である。街を歩いていて目をひく女性が歩いていて、チラリとそちらに目を走らせる。ほかの男性がどうかは知らないが、私はそのような経験がある。そしてこれが性的なものではないか、といわれると絶対的に否定できるとはいえない。このような視線を向けてしまうような性向があるいは男性全般にあるかもしれない(ないかもしれないが)。そんなことがあると、不愉快な気分に陥り、自分のいやらしさに嫌悪感を感じるのだ。

著者が言うに、セクハラ男は「男たちの逸脱は理性では押さえられない、説明不能な本能的なものとしてあらかじめ思考停止されてしまう。そうした前提で、『それは許されるはずだ』という甘えた主張が『それは仕方がない』にな」るというのだ。その通りだろう。私が思うに前提は正しい。セクハラをするしないの分岐点は、その前提を承けて仕方がないから許されると思うか、それほどどうしようもないのだから、さらに自分を抑えようという努力をするかの点にあると思うのだ。そして同時に時に自己点検すること、自らの言動が、他者から見てどのように見えたかという共感性をチェックするのだ。これはセクハラに限らないが、いずれハラスメントは必ず共感性の欠如から発生する。「私はセクハラはしない」という安心は陥穽にでさえあるかもしれないのだ。

玄田有史『働く過剰』

NTT出版の『日本の<現代>』シリーズ第12巻。玄田氏は『仕事の中の曖昧な不安』などですでに著名な労働経済学の研究者である。前半を若年層の労働問題全般に、後半を特にニートについて論ずる。本書では出所のしっかりしたデータを多数駆使して、客観的に問題を論じており、非常に説得的な仕上がりであるといえよう。しかしながら、この問題について、私にはそれなりの視点や知識を持っているわけではないので、備忘録的にメモ。

  • 即戦力重視とは企業の人材育成軽視の姿勢。あまりに短期的な業績に左右される人事・労働政策をとる企業であることを示しており、実際に業績と即戦力重視の度合いは反比例しやすい
  • 30歳代において過剰な長時間労働と無業の二極化が進みつつある。また統計的に「平均」のみを見ると読み誤る。また長時間労働の最大の弊害は能力開発の機会を奪うこと
  • 団塊の世代は就職時に高度成長、その後の石油ショックで転職もあり得ない時代に過ごすというタイミングのせいで結果的に長期雇用、年功賃金の恩恵を最も受けた唯一の世代
  • ニートといっても全てが就業を希望しない人々ではない。就業を希望しながら仕事を探していない「非求職型」について考える必要がある。また「家事手伝い」はその名目があるだけであって、実際上まさしく「ニート」と考えられる層であり、支援の手を伸ばす必要がある。
  • 就業を希望していない「非希望型」においても、2000年代の統計ではすでに低所得世帯の割合が上昇しており「あまやかし説」は一方的に妥当するものではない。
  • 経済的に高所得と低所得の家庭、そして親と子の関わりにおいて過剰な関与と放任という両面の二極においてニートが発生しやすい。
  • ニートになるのは「早寝、早起き」などリズムが出来ていないから。リズムに乗れば、意味など考えずに働ける。

あとがきで余談的に語られる大学論は興味深い。資格やスキルなどすぐに古くなる。大学で教えることではないし、そんなものは企業も求めない。わけのわからないことをわからないなりに取り組む姿勢、「「わからない」ということに対するタフネス」こそが求められるスキルであり、同時に大学で身につけることの出来るものなのだというのは全く同感であった。

長尾宇迦『津軽南朝秘聞』

題名を聞いて、知っている人ならば[[浪岡氏|浪岡北畠]]のことだろうな、という予想がつく。浪岡北畠というのは、後醍醐帝の建武新政の際に奥州に下り鎮守府将軍となった[[北畠顕家]]・顕信兄弟の子孫で、津軽平野の東部、[[浪岡町|浪岡]]に貴種としての権威をもって威を張った一族で、南北朝が終わり戦国末期、[[津軽為信]]に滅ぼされるまで続いた。

本書は、その最後の当主、[[北畠顕村]]の時代を描く。といっても、それ以前がおろそかにされるわけではなく、能楽者兆阿弥が顕村に、浪岡北畠の由来を語る、という形で本編の進行と関わり合って来るという形になっている。ややドラマトゥルギーとカタルシスに欠けるきらいはあるが、それでも所々に津軽弁や土俗化した京の風習をちりばめ、もう一方で顕村の京への帰来志向を描く著者の文章には堅実さが見られる。

さらに小技のように、[[聖護院]]や[[修験道|熊野修験]]との関わり、顕村の義父・[[安東愛季]]の描写、母の出自となる油川湊の商人たち、[[南部氏|根城南部と三戸南部]]の微妙な関係、川原の乱と九戸氏、そして浪岡滅亡の裏に暗躍する[[蠣崎慶広]]など、実に興味深いエピソードがさまざまに語られる点が非常に魅力的だ。

題名から想像されるような、後醍醐の遺詔があってどうのこうという話ではなく、むしろ土着した浪岡北畠のありようを描くものである。総じて淡々とした筆致で、あまり血湧き肉躍る戦国軍記の類ではないが、民俗学や社会史、地方史などに興味のある向きには悪くない書物だと思う。

ダイアナ・マーセラス(関口幸男訳)『夜明けをつげる森の調べ』(シャーリアの魔女第3部,上下巻)


三部作かと思いきや,おわらない.いろいろな伏線がそのまま.作者も投稿している掲示板を読んでみると出版関連で問題があり,脱稿しているものの出版が出来ない状態の模様.無事出版,翻訳されることを祈る.著者もいっているがTo Belive!である.

篠田一士『三田の詩人たち』

あゆみにあったので,当然題名にひかれて買った本.が,実は慶應義塾と文人たちの関わりはほとんど何も書いていない.書いていないが近代日本詩学論的には非常に質のよい教科書といってよい良書かもしれない.扱う人々は久保田万太郎,折口信夫,佐藤春夫,堀口大學,西脇順三郎であり,彼らがたまたま三田と関わりがあった,という意味の書名.

日本文学における「象徴主義」という語の用い方や,西脇のモダニズムが定型詩からの脱却を通じて達成した詩的言語空間創造の本当の意味など,驚くほど深い意味が軽妙に語られる.詩そのもののの読み方は,おそらく著者と私は決して相容れることはなさそうに思えるが,評論としてすぐれているのは間違いない.