橘木俊詔『日本の経済格差―所得と資産から考える』

推薦版.本書は経済統計を駆使して、私たちの目から鱗を落としてくれる。その鱗とは「日本は経済格差の少ない、総中流社会」という神話である。著者によると戦後一貫して不平等化は進行している。バブルはそれに拍車をかけ、バブル崩壊は逆に平等化をしたように見せた。が、戦後の進行を考えるとバブル期が異常であっただけで、バブル崩壊も「戦後の着々とした不平等化のペースから見て自然な場所」に戻しただけであった。いま、世間では規制緩和、直間比率見直が叫ばれている。著者から見ると、不平等化に油を注ぐだけ、ということになる。

しかし私が思うに、結果の平等ではなく、機会の平等を求めるべきであろう。その意味で私は著者の第1の提言である累進課税の強化には反対である。しかし第2の提言である相続税の強化には賛成である。なぜなら結果の平等を保証しないなら、機会の平等を徹底して保証しなければ、自己責任をとらせることはできないからである。生まれながらの高所得者を私はあるべからざるものと思う。

谷川稔, 北原敦, 鈴木健夫, 村岡健次『近代ヨーロッパの情熱と苦悩』

本書はEU統合を進めつつあるヨーロッパの19世紀の姿を描き出す。

谷川による序は、木村尚三郎による近代を新しい中世とする「暗黒の近代」論から説き起こされる。法王庁、神聖ローマ皇帝の国際的普遍権力を現在のEUと重ねあわせる見方もあるが、谷川はこれらの権力は地域的な個性が競合し微妙な均衡がなりたった時代、そのうえに存在したものであるとする。ゆえに過度に重ね合わせることは危険であり、民衆レヴェルがあるアイデンティティをもち、社会が工業化をとげ、現在に至る国民国家が形成された19世紀ヨーロッパは興味深く、ドラマ性にとんだ時代であるがゆえに、考察の対象として重要であるとの結論に導く。

第1部「フランスとドイツ-国民国家へのはるかな道」(谷川)は仏独を谷川の筆に委ねる。その19世紀、フランスでは「市民」を、ドイツでは「国民」を作っていった。

フランスは大革命以降19世紀を通じて度重なる革命と市民蜂起の歴史を歩んできた。そこには「普遍的な共和国」という市民たちの固く抱く「意志」があった。そして、その象徴こそが歴史に繰り返し現れるパリのバリケードだった、とする。一方のドイツでは国民が作られていった。その過程が生き生きと描かれる。「創られた伝統」の好例であろう。しかしながらここで注意せねばならぬのは、ドイツ国民は創られたにせよ、現実に意味のあるものとなっていった、ということである。実態を備えた以上、その「国民」が虚構であったとしても歴史学は分析せねばならない、との示唆は重要である。

また谷川は従来の反動としてのウィーン体制論にも一石を投じている。これをナポレオン的ヨーロッパの再分割と捉えている。つまり復古というよりヨーロッパ新体制であるとしているのだ。

第2部「自由を求める南ヨーロッパ」(北原)はイタリアの統一までを民衆の秘密結社に特に注目し、1848年革命前後がクライマックスとして描き、第3部「19世紀ロシアの嵐」(鈴木)はアレクサンドルI世、II世の改革とロシアの農村共同体ミールの強さ、またロシア本来の改革運動の「専制」の側面を効率的に説く。

第4部「ヴィクトリア時代の光と影」(村岡)。産業革命論を適度に押さえた上で、19世紀を通じての「自由主義」のもつさまざまな意味を非常に多角的な筆で描く。この「自由主義」とは当時の文脈で言えば「民主主義」とは対抗をなすものである。それは18世紀の保護貿易重商主義の連合王国を支配した地主貴族層に、中流階級的にジェントルマンが加わり支配した時代の、まさに「哲学」であった。ベンサム的功利主義は中流階級が上層へと合流し、自由党支配を生み、イギリスのさまざまな覇権を支えさせたのである。その流れは労働者の貧困と結びついていたが、やがて議会政治は「政治的」理由によって選挙法改革などを通じ、いつのまにか労働者の上層をも巻き込んで行く。そこに革命なきヴィクトリア朝連合王国の秘密があった。

本書は社会の流れにも無関心ではない。フランスでのカトリシズムと教育の問題=ライシテへの道、ドイツでのブルシェンシャフトの旗、イタリアの秘密結社、イギリスの労働者と中流階級のジェントルマン化とその欲望(これをもった人々:スノバリ)、あるいはパブリックスクールの進展などにも目を凝らす。まさに19世紀ヨーロッパを見つめつづけた人々が贈ってくれた書物といえる。

そしてまたナショナリストとパトリの概念についても、再び私に問い直すよう要請してくれたことを感謝したい。

田中康夫『全日空は病んでいる――「ザ・ファースト・チョイス」の勘違い』

NHとJLを矢面に立たせて、サーヴィス論を展開している。個々のクレーム例などは「ふーん」で済ませてよいと思うし、実際苦情を受け付ける能力をNHが失ってしまっていたのも事実なのであろう。しかしこの書物でより重要なのは表題のNHではなくサーヴィス論である。

日本人の多くがキャビンでのサーヴィスを「自分が特別扱いして貰うこと」=ホステス的サーヴィスだと思っていて、航空会社もそれをサーヴィスとおもって唯々諾々と従ってしまっているのが現状の日本の空であると指摘する。飛行機を特別な乗り物と思い、そしてそう思って乗っている自分は特別と思い、奴隷のように客室乗務員を見下すフリークエント・フライヤー。その逆のコンプレックスで自分は航空会社に勤めていること、これを「ステータス」のように思いこみ、一般の乗客を「カーゴ」扱いする社員。奇妙なおもねりと傲慢さが支配するFクラスのキャビンの雰囲気が全社を支配してゆく。それがエアラインが墜ちてゆく過程だとの主張である。

お互い人間として、あるべきサーヴィスを感謝を持って受け止める乗客と、ホスピタリティ溢れたキャビンアテンダントと、その雰囲気をより育てて行くエアライン。これが理想と言えるような気がする。日本的ではないのかも知れないが、個人主義的なホテルのサーヴィス、暖かく不自然でなくスマートな、サービスをして欲しいと思う。

ナショナル・フラッグ・キャリアとして「国」を背負ってしまい、単なる運輸業の自覚を無くしたときが危ないと筆者は主張する。余裕ある二番手は美しい。アンセットがそうであり、アシアナがそうであった。そして全日空もそうだったのだ。地方から地方へと向かう航空機の乗客に一生に一度のフライトを楽しむ老夫妻が居るかも知れない。その人達の集積が航空を支えている、くらいに思った方がよいのだ。

ちょっと褒めすぎた感がある。苦言を呈すると文章にむやみに漢字を使いすぎである。カタカナがどうしても多くなる業界だけによみにくい。「仮令」なんて普通使わない。それからサーヴィス云々したところで、所詮はFやCクラスのフリークエントユーザーである。だからエピソードもそちらに傾きがち。説得力がないと言えば、ないかもしれない。

寺崎英成『昭和天皇独白録』

推薦版.この本は寺崎英成という外交官が、昭和天皇の戦争当時を回想しての口述を記録したもの-寺崎手記をおさめている。以前に文芸春秋に掲載され大きな話題となったが、現在では戦時の研究を補強するのに使われているようだ。

この終戦後の聞き取りを行った時期の帝の視点は、天皇制自由主義的帝国主義者のそれである。そして当時の国民の多くと近いものだったのではないかと思われる。

内容の探求は伊藤、秦、児島、半藤といった識者の座談(本書収録)をよめばよい。むしろこの書物から浮かび上がってくるのは、アジア太平洋戦争記の宮中の雰囲気であろう。私としてはやはり木戸内府の存在の大きさを再確認した。

さて。当時の日本を振り返るときには三つの視点が存在するように思える。1に共産党がいうような現在の視点からの否定(すなわち当時の状況・環境を考える必要はなく普遍的に否定)、2に当時の軍国主義・精神主義を否として、英帝国のような自由主義的帝国主義のかたちを取っていれば容認、三に戦争賛美の論調である。戦後の冷戦神話のせいか、どうしてもアジア太平洋戦争がイデオロギー的対立であったというイメージができあがってしまっているように思える。一方で帝国主義的な対立もあり得たと言うことを忘れてはならない。

私たちが見るとき上の3は論外としても、あくまで歴史的、政治手学的に見るということを大切にしたい。それぞれに関してきちんと整理して、考えて見ねばならない。凝り固まることで、当時の歴史上の戦略論として発表されたものを、現在の規範から猛烈に批判するということは、背景からしてずれており中傷合戦となる。このことは本当に気を付けなければならない。

小野博『バイリンガルの科学』

大人は既に考える道具として「母語」を持っている。故に小さな子供も日常会話さえできれば、自分同様考える道具としての言語を身につけたと思いこんでしまい、「学習言語」のレヴェルという重要なことを無視しがちである。

本書が最も強く警告してくれるのは最低限の母語を習得せねばならぬということで、中途半端な教育を他言語にわたって親が小さな子供に強要する場合、二言語とも年齢相応のレヴェルを獲得できないセミリンガルになってしまい、将来に渡って知的能力に障害が発生してしまう危険である。

そこから派生して強く主張されるのは、言語が形成され完成するのは小学校六年生程度であるので、小学校三/四年生での出国や帰国には非常な注意が必要であるということだ。できれば小学校一~六年生までは同一言語環境で教育を受けさせるべきであること、もう一点は母語習得後は、母語の能力レヴェルと学ぼうとする言語でのレヴェルに相関関係が認められるということである。すなわち中途半端で幼稚な日本語しか使用できないものは自ずと英語の学習にも限界が発生してしまうと言うことである(日本語が母語で英語を学習しようとする場合)。

日常会話と、正しく美しく専門的な言葉との間には大きな溝がある。すらすらと話せることで幻惑されてはならないこと、逆に慣れだけではダメでモチベーションを維持していかなければならないこと。これは押さえておく点であろう。

杉浦一機『便利で快適な飛行機に乗りたい――利用者のための航空事情大研究』


航空評論の草分け、杉浦一機による航空事情解説書の新装版。彼の提言は多岐に渡り、また上下巻双方の1/4をしめるエアラインガイドも有用だ。

杉浦が特に強調するのが日本でのハブ&スポークの活用である。日本の大都市の空港のパンク状態はますます有名だが、ここにいたってハブ空港というタームが多用されるようになった。いうまでもなく羽田などはかなり多くの乗り換え客が利用しているわけである。

そこで杉浦は国内的には東京をハブ化する必要はなく、羽田はただの東京に出入りする人の玄関たるべきであるとする。そして逆に地方-地方路線も採算が合わないのも当然。であるから地方の中心空港を活性化すべき。例えばまず羽田-北海道各地の便を廃止する。これによって離着陸が満杯に達している羽田での発着を大型機のみとしてランウェイの効率よい活用を目指し、B747を中心として羽田-札幌を増便する。その上で、札幌のハブ機能を高めて、各地に分散させるという方式を提唱する。また国際線もアジア近距離ではその行き先(たとえばソウル)を札幌同様に考えて羽田発着にしてもよい。地方-地方路線も単純に運行したのでは採算は望めない。かといって東京に発着させると効率が悪い。そこでいっそのこと東京に寄らない客はすべて新潟に集中させてしまうという案である。

なかなかに魅力的な案だが、そのためには乗り継ぎ料金を設定する必要があろう。また離発着をすること自体が、金がかかるということも問題である。なぜ詳しいはずなのに言及がないのだろうか?

主に航空政策が中心になっているが、副題の<より便利に>の視点がいかされた本である。ただし普段飛行機に乗ることがない人には、もしかしたらどうでもよいことかもしれない。

歴史学研究会編『世界史とは何か――多元的世界の接触の転機』(講座世界史1)

若干左寄りとはいえ(「近代」と「一国(一世界)中心主義」からの脱却を目指す)、岩波の新しい講座版が出るまでは、これがあったのみである。

さて。本講座は、いわゆる「大航海時代」から説き起こす。新鋭の研究者たち(イスラーム世界も充実!)の受け持つ大きな視点からの各論と、さらに相当に特殊なレヴェルの特論から成る。

本巻は、第1巻であり、まず第1部「多元的世界の接触」で、欧州大航海時代以前の接触と世界を描き出す。清水宏祐「十字軍とモンゴル~イスラーム世界における世界史像の変化」は「イスラーム世界史」という書物のジャンルの変遷を追うことで、イスラーム世界の交流と一体性がどのように変化したかを明らかにする。9c-10cにかけてバクダードを中心に盛んだった天地創造から説き起こして現代までをカバーする「世界史ジャンル」-たとえばタバリー『諸預言者と諸王の歴史』-は11cに入ると停滞し、むしろイブン・アサーキル「ダマスクス史」など地方史が盛んになる。清水はこれをファダーイル(地方の美徳・美点)とからめて、地方王朝の成立、「地方意識」の芽生えからと説明し、さらにそれぞれ都市の名を冠した都市~都市圏~地方からなる都市中心の地方意識を明らかにする。13cには大モンゴル帝国の成立と地方史によって養われた歴史書の技術による世界史の復活、王朝史の充実が見られることを指摘し、最後に十字軍のイスラーム世界への文化的寄与はほとんどなかったと結論づける。

続く新谷英治「オスマン朝とヨーロッパ」はヨーロッパとオスマン朝の交流と相互の影響について双方向的に概観する。オスマン朝はその政治的な勢力によってハプスブルグ大陸帝国の成立を阻止し、フランスと同盟関係に入ることによって、欧州の勢力均衡・宗教改革を形成し、近代欧州の成立に与えた影響は大きいとする。一方欧州がオスマン朝に与えた影響では、美術・建築を中心とした地中海文化圏の存在を認め、その交流の姿を描く。

目を転じて東アジアを描く荒野泰典「東アジアの華夷秩序と通商関係」は、西方の「世界」に対して東アジア世界を提示して、華夷秩序とそれに則った通商関係を示し、特徴づけ、続く辛島昇「仏教・ヒンドゥー教・イスラーム教」でインド亜大陸でのかく宗派の混ざり合いを描き、世界の併存状態を考察する。

さらに大航海時代以前の地球各地の世界を示唆する各論から特論に入る。宮治昭「トゥルファン」はトゥルファン周辺の各石窟から文化の混ざり合いの変化を読み取り、西の方イベリア半島でイスラーム時代からレコンキスタ後にかけて花開く都市トレードを描く林邦夫「トレード」、地中海の中央にあって東西の十字路となり、まさにムスリムとクリスチャンが「共生」した両シチリア王国を描き、後の『神秘の中世王国』の要約ともいえる高山博「シチリア王国」が、示される。

第2部「大航海時代」はまさしくその大航海時代の端緒である清水透「コロンブスと近代」から説き起こされる。コロンブスの作り上げた世界はまさしく大西洋から太平洋へと道がつながる過程でもあった。スペインはメキシコを経由して、さらに地球の裏フィリピンまで支配した。そこはノエバ・エスパーニャ(メキシコ)副王府に従属しながらも一方で、独自の経済を確立し、アジアとの銀のパイプを持ち16cの華やかなるアジアの海を現出させていたのである。

他に菅谷成子「フィリピンとメキシコ」。加藤榮一「銀と日本の鎖国」、長島弘「海上の道~15c-17cのインド洋、南シナ海を中心に」、堀直「草原の道」、宮地正人「台湾」、田中一生「ドゥブローヴニク」

長谷川毅『ロシア革命下ペトログラードの市民生活』

本書は,2月革命後の臨時政府成立の翌日1917年3月5日(ユリウス暦.以下同様)から,翌1918年4月3日までの大衆紙的な「低俗新聞」各紙の犯罪問題を主にピックアップしてまとめたもので,著者自身により「はじめに」と「終章」が設けられている.また第1章から第4章(10月革命直前)まではほぼ毎日,第5章の10月革命後は数日に一つの記事が掲載されている.

「低俗新聞」記事の列挙は,当時のペトログラード市民の約半数を占める工場労働者以外の「労働運動の外におかれた未組織の労働者」や,それ以下のさまざまな階層の「下層階級」に焦点を当てることを意図する.すなわち,「一般民衆」の姿を社会史的に描こうという試みである.

一見して無秩序に並んでいるような記事も,全体を通して読むと,ある一定の傾向が明らかとなってくる.犯罪の総数,その質(暴力をどれだけ伴うか,「殺し」なのか「盗み」なのか,権力の名を借りた強制捜索という形を取るのか,あからさまな強盗なのか),犯罪の主体といった視点,また逆にそれを取り締まる警察組織の姿は,どのようなものだったのか,そして「一般民衆」の犯罪に対する視線や,警察組織に対する視線はどのようなものだったのか.以上のようなことが時系列にそって,動態的に活写される.もちろん新聞それ自体を読むわけではないので,情報の操作は注意しておくべきことである.

脱走兵による犯罪の多発と武器の流通,軍服をまとった犯罪者の数は革命後の軍事政策の失敗を物語り,民警の無力は,民衆のサモスードを呼び,やがては信頼を失い臨時政府=権力への不信感へとつながって行く.民警に対する攻撃やいやがらせが10月革命前には相当数に達している.

さて.では,著者は社会史的に犯罪と「一般民衆」を描き出して,どのようなロシア革命像を描き出そうとしたか.これは実におかしいことだが,終章,特に最後P.327の一段落が全てを表現している.長いが引用する.

ロシア革命の背景には,このようにすさまじい社会秩序の崩壊があったことを理解しなければならない.ロシア革命の結果として樹立されたボリシェヴィキ政権は,暴力を剥き出しにするリヴァイアサン国家でしかありえなかったのである.

長谷川は,終章はじめのP.312で「二月革命前のペトログラードは犯罪率の低さを誇る平和な都市であった」と述べる.先の引用と比べてどうだろうか.革命の進行が,都市ペトログラードの秩序を奪い,公的暴力機関の崩壊を招き,ユートピア的な発想の臨時政府の治安政策のもとで,逆に犯罪のはびこる都市の「一般民衆」は鬱屈する「パッション」を階級的憎悪に移し替えた.これを制度化し,利用し,権力を奪い取ったもの,それこそがボリシェヴィキであった.革命下,矛盾が吹き出し,狂騒のエネルギーが渦巻くペトログラードで,レーニンは「主体的行動」によって社会の発展段階を進めうると考え,ボリシェヴィキはそのエネルギーを利用し権力を一気に奪った.民主主義は挫折し,奇形のリヴァイアサンを生み出した,長谷川はそう主張する.

この点は,少々論理の飛躍のように感じる.新聞記事とその分析を通じて,民衆の意識の変化や,民警制度の動き,犯罪の質の変化などに関して,それぞれもっと説明が欲しいし,記事のピックアップの仕方についても充分な説明がない.いささか強引にリヴァイアサン論へとつなげてしまっている.長谷川の方法は,新鮮であるが,その一方でかなり危険だ.その意味で注意深さが欲しい.「一般民衆」の生活が実は見えてこない.資料の不足が実に弱点となっているのは明らかだ.

犯罪者とその予備軍の増加,住宅そのものとその需給バランスの崩壊,物不足は革命がもたらした経済状態が,ペトログラードの人口に見合っていないことを示す.にもかかわらず,ペトログラードとその外部の人口移動に関しては,ほとんど述べている点はないし,数字も記事中のものがあるだけである.

長谷川の新聞に関する眼差しと,新たに公開されつつある資料をつきあわせ,さらにペトログラードの市民生活の動態が明らかになるときに,ようやくより歴史に近い言説を,つかむことができるのではないだろうか.ロシア革命史にはまだまだ下積みの地道な研究が必要である,と感じた.

アンソニー, イーヴリン,(食野雅子訳)『聖ウラジーミルの十字架』

サスペンス.ロシアの歴史を動かし得る皇位の徴「聖ウラディーミルの十字架」をめぐる人々の動きを大テロル期からソ連の崩壊まで, 英領ジャージー島, モスクワ, ジュネーヴと展開する物語はなかなかスケールが大きい.

結局クライマックスがあって, その後幸せに幕を閉じるわけで, もちょっと政治レヴェルの大きなうねりとかがあると楽しかったかも知れない.

石崎秀夫『機長のかばん』

前の旅行三昧で、一週間半のうちに6回も航空機に乗った。マイレージなど、航空業界のことに色々興味を持ったため、関係書をいくらか漁ることにした。本書は、業界というより、飛行機の整備、搭乗、離陸から着陸まで、様々な段階に分けて、操作や危険なことなど、旅客機の運用を東京-福岡という1フライトを例にとって、わかりやすく説明してくれた。航空力学・工学の基礎の基礎にもふれることが出来、航空事故事例などが読みやすくなりそうである。どちらにしても運用プロセスが分かると言うことは、乗客となる身にとっても、愉快なことである。

山下和美『天才柳沢教授の生活11』

心映え、というものを扱うことの多い本シリーズでもこの巻では、人と人との関係ことに教育を考えるきっかけになりそうである。「第102話 ソネット83 番」は出色。長いスパンの目と、確かな理解。好奇心と洞察力。研究者と教育者はどこで接点が見いだされ、どこにおいて、最良の「師」たりうるのか?

阿部謹也編『私の外国語習得法』

外国語の勉強の方法って本当に人それぞれだと思う。そのいろいろを矛盾する点もそのまま、掲載しているところに本書のよいところがあるように感じる。自分の方法が正しいと信じている人もいるし、自分のやり方が、方法の一つに過ぎないと考えている人もいる。また外国人からの日本語の習得についても頁が割かれていて、新鮮である。筆者に年輩の方が多く、往古のアカデミズムを感じさせる外国語の授業のかたち、も知りえた。なかなかに楽しい書物である。

フィースト, レイモンド・E.,(岩原明子訳)『リフトウォー・サーガ』(4巻 in 7冊)

ファンタジーは私の好きな部類だが、その中でもかなり上位に入るシリーズ。ファンタジーといっても、あまりにおどろおどろしいヒロイックファンタジーは嫌いだから、どうしても指輪物語の系統といった感じになる。本書は、その条件をよく満たしている。

結構政治がらみっぽいプロットもあり、世界設定もわりとよくできている。一話完結だが、第3巻での大どんでん返しは、かなりのもの。先頃4, 5巻も出たので、続刊も早く読みたいところ。

実は、この本以前に読んでいたことがある。ところが、3巻後半だけ絶版になり、ずっと悔しい思いをしていたのだが、ようやく97年夏に再刷されたのだ。それでもう内容を忘れてしまったので、今回読み返したというわけ。2回目とはいえ、かなりの読み応えであった。

以下、4巻刊行後追記。完結したシリーズの続きが出るのは、嬉しいことである。時代はすでに第1巻から30年も経過している。世界の創造という大事業を著者は成し遂げている。奇妙にむつかしい魔法の奥深くといった要素は、今回けずられ、ファンタジー冒険物語風であることも好感である。いけすかない王子さまたちが苦労するのを見るだけでも楽しい。世界はさらに膨らむだろう。

森詠『日本朝鮮戦争』(全15巻)

さりげなく図書館で借りては読んでいた。仮想戦記物は昔ちらちら読んだが、最近はご無沙汰。なんだかなぁ、という設定だったが、借り始めたときは、なにか軽い大長編が読みたかったので、これを選んでしまった。

北朝鮮が、韓国に侵攻して……日本で国粋政権が出来て……PKO派兵を韓半島にするという設定。当然、韓国人は「倭奴」を憎んでいる。

この書も日本人がいかに「国家」「民族」の虜となっているかを理解させてくれる。ただし一点ひかるのは、鮮宇尹という北朝鮮兵士である。彼は女真族で、自らのアイデンティティに悩む。結局それは戦死によって解決されないまま、物語は終わる。社会主義体制下での民族、あるいは「近代」の民族の無理、が読みとれる。しかし残念ながら、本書の読書でそれを考えたのはどれくらいの人たちであろうか。普通に読んでしまえば、少数民族の悲哀、で落ち着いてしまうところに怖さがある。

さて。全体を通しては、とんでもない話で、友好関係をそこなう、まで言ってしまってもいいかも知れない。ましてや下卑であるし、兵器の説明が長すぎる。参考文献もどうにも怪しい物ばかりでまともな研究書はあまり見あたらない。ルビのカナもいいかげんである。ある程度の「見方」をもたずに、このような書を読むのは、大変危険な事と感じた。

南川高志『ローマ五賢帝』

しばらくローマから遠ざかっていた。実は、五賢帝時代の研究者が日本でほとんどいない、ということを知る。非常に意外であった。養子皇帝制というのは妙だと思っていたが、やはり。帝国に関しては没落論の影響か、五賢帝時代以外は暗黒帝国という印象さえある。それを五賢帝時代の実像を描くことで、相対的に他の実像をも見せることになるだろう。

著者は、実は五賢帝時代の基礎をなしたのは、ドミティアヌス帝であったと考える。従来、暴帝と考えるものたちを、色眼鏡をかけることなく、見て行くことを再確認させられる。同時に、ローマ史において、ポロソポグラフィーという手法の重要性を学んだ。

また深読みのしすぎかも知れぬが、目次では第一章が「訪れぬ光-五賢帝時代の始まり」とあるが、章の扉には「訪れぬ光-四賢帝時代の始まり」とある。本文中のネルウァ帝の描き方から考えて、妙にわざとらしい。なぜネルウァが賢帝と呼ばれるに至ったか、説明が求められる。

東長靖『イスラームのとらえ方』

特選版。イスラーム入門の上で最もよくまとまった書である。この薄さに、これだけの内容を込めた著者に敬服である。しかし同時にいつまでイスラーム関連の学者は「啓蒙」をせねばならぬのだろうか、とも思う。遠く井筒俊彦先生にはじまり、今も続くこの流れの重要なファクターが「啓蒙」なのだ。これは学者の歓びなのか、知られぬ悲しみなのか。私には、分かりかねる。できれば高校のうちによんでおきたい書物である。

永田雄三, 羽田正『成熟のイスラーム社会』

本稿は永田雄三/羽田正『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15)中央公論社,1998を読んでのエッセイである。本書は、中央公論社の「世界の歴史」新シリーズの中の一冊として出版された。第一部で「東洋の衝撃」以前のオスマン朝を、第二部でサファヴィー朝を扱う。今回のレポートはその中の永田雄三による第一部「暮らしのなかのオスマン帝国」について扱う。

一読して驚くのは、オスマン朝史という世界は、なんと広いのかということである。世界史的には、中央ユーラシア起源のトルコ系遊牧民の役割と打ち立てた三大帝国、一方で、オスマン朝によっておされたヨーロッパのルネッサンス。そして完成された後期イスラーム帝国の華。鈴木董が論じてきた世界に冠たるオスマン帝国官僚制をはじめとする帝国国制、精緻化され史料の大量に残るシャーリア法廷論、権力と民衆が都市を舞台として「アドル」を奪い合う社会性。一方で、民衆たちも「カフヴェ・ハーネ」で政論を形成していたというハーバーマスの公共圏の世界、アレッポやイズミルを中心とする遠隔地貿易の富、18世紀以降の地方の台頭。どこまでも議論がわき出てくる。やはりオスマン帝国は政治的、社会的、経済的に、イスラームの洗練の極み、いきつくところであるのだ、ということを確認した気がした。

そのように広さを感じさせるほどに、さまざまなことに本書は言及する。しかし総花的で読み飽きるようなことはない。それは、おそらくは「オスマン帝国という時代の社会の歴史」を丹念に描写しているからではないだろうか。そう考えると、実は政治史や国制論の比重が意外と軽いことに気づく。清水宏祐が評するように、概説であっても鈴木董『オスマン帝国』という政治史と国制論の良書があり、『オスマン帝国』がカヴァーしきれていない社会の面を、本書は重視しているという見解は正しいように思う。あくまで本書では、帝国政府は社会の一員に過ぎず、オスマン帝国社会が、みずからどのように生きたか、どのようなシステムで統治を作り上げたか、それをイスラーム的にどのように語るか、さらには時代的地域的に隣接する他の社会とどのような関わりがあるのか。そのようなテーマが、わかりやすい事例とともに編み上げられているという印象を受ける。

社会をテーマとしていると考えると、コアになるのは第四章「「オスマンの平和」のもとで暮らす人々」であろう。私には、イズミルといえば永田さんというほどの印象があるのであるが、まさに本領を発揮している。オスマン帝国といえば、「帝都」イスタンブルという強烈な都市があるだけに、その他の都市がかすみがちである。しかし本書ではイスタンブルを例にとって、イスラーム的な都市と都市生活を語り、さらに遠隔地貿易と絡めて、アレッポをも論じている。都市生活者のみではなく、都市に「出入り」するトルコマン族の生き方を論じ、一方で黒海貿易とカッファの復活まで言及している。その叙述の手法は、これほどにバラバラになりがちな議論を、帝国を生きる人々という確固たる軸上に、鮮やかに並べている。この議論があってはじめて、概説書には登場させにくい世界有数のトプカプのコレクションやカラギョズまでも論じることができたのではないだろうか。サライ・アルバムという言葉への直接の言及はないが、オスマン美術が概説書で一章を割かれた意味は大きい。

だがテーマ上、手薄になる分野が現れるのは、避けられない。たとえば、地方財政とカーヌーンの抱き合わせによる地方統治についてはほとんど触れられていない。さらにティマール制までもその議論に絡めると、この分野での議論は、あちらこちらの章にバラバラになってしまって統一的に把握することが難しくなってしまっている。そしてなによりもオスマン帝国統治下のアレッポを除くアラブについての記述が致命的に少ない。これはむしろ次巻で語られることになるが、それでも同時代同社会であることを考えると残念なことである。

私が非常に細かい点で気になったのは、ワクフの運用についての記述(p.121)である。永田氏は、ワクフ制を商工業の発展を阻害したという見方は誤りであるとしている。その理由として、ワクフ対象は修理、改築を行い、賃貸をする柔軟性を備え、イスラーム法で君主の恣意的な収奪から資本の分散を防き、賃貸を通して小規模な資本しか持たないものにも営業の機会を与え流動性を促進したことを挙げている。たしかにそれはワクフの利点である。しかしそれは前述の見方を誤りと断定する理由であり得るだろうか。たしかに資本の分散は防いでいるが、一方で投資が極端なまでに不動産に偏り、技術革新や商業に対する投資を減退させる。これはワクフのデメリットである。そのデメリット解消のために、一般には消滅する財をワクフ財とはできないという原則に反して行われたオスマン朝に特有の現金のワクフ財化があったと思われる。これをウラマーの資本蓄積の点や、ハナフィー学派の柔軟さとのみ関連づける議論はいかがなものかと考える。

だが上記のような細かいことを言い出せるほどに、本書の目は細部に行き届いている。現金ワクフへの言及などはなかなかに概説レヴェルではないと思う。おそらく読者の関心に従って、そのように論点を深めてゆくことができるという点で、すばらしい概説であると言えるように考える。

参考文献

  • 清水宏祐「書評」http://www.asafas.kyoto-u.ac.jp/asia/renkan/library/nagata98.htm,1999
  • 鈴木董『オスマン帝国』講談社(現代新書),1992
  • 永田雄三編『西アジア史II』山川出版社,2002
  • 林佳世子『オスマン帝国の時代』山川出版社(世界史リブレット),1997
  • 山内昌之『近代イスラームの挑戦~世界の歴史20』中央公論社,1996

森川久美『南京路に花吹雪』(全3巻)

全三巻.上海の租界は昔から気にかかる場所ではありました。憧れのヨーロッパの香りも、目を背けるべきような西洋の昏さもいろいろ混じり合った不思議な空間を再確認しました。どちらにも惹かれるものを自分の中に見つけました。ただ『イスタンブル物語』でも思ったんですが、森川久美って実はナショナリストなんじゃないかなぁと思いました。ナショナリズムのことを考えるにもよい本でした。絵柄は好きですが、コマ割がすこしなじめません。おかげで状況描写が少し頭に入りにくことがありました。

萩尾望都『A-A’』

表題作のほか「4/4カトルカース」「X+Y」を所収。一連の一角獣種シリーズである。萩尾を読むのも久しぶりなら、新しめの作品も久しぶりであった。その日のうちに読了。僕は問題短編的なものは苦手なのだが、「X+Y」のハッピーエンドで救われた。途中のカラーページもきれいだったし、ストーリー展開などは、萩尾のことであるから、下手な文句も言えない。このころの絵が一番洗練されているように感じた。萩尾の全著作評論集など作ってみたいものである。うぶなモリが好き。

新田俊三『アルザスから-ヨーロッパの文化を考える』

推薦版.アルザスの持つ多様性とそれを許容するアルザス文化。僕の考える人の生き方が紹介されていた。そしてまた、紀行も食、風景、地理としっかりしている。ドイツへの近さ、パリからの不便さなどは逆に魅力なのではないだろうか。研究者の書く紀行とはかくあるべきであろう。当然専門の経済学についても述べられているのだ。