今月に入って、過去の日記の字句を少しずつ修正している。
先月、日記をまとまって読み返す機会があって、はじめから読み直してみた。ところが、意味不明な箇所があまりに多い。自分の文であるにも拘わらず「ひどいなぁ」と思い、同時に恥ずかしく思ったのである。特に1997年から1999年の間にひどいものが多かった。自分で考えて書いたのだから、何を書こうとしているのかはわかる。しかし日記の文章だけから、私がどのように考えを展開し、どのように結論に至ったのかを読みとるのは、実に困難であった。
そんなわけで、日記の字句修正に踏み切ったのである。そのために私の文章が読みにくかった原因を考えてみた。おそらく原因は次の四つであろう。
- 指示語の濫用
- 繰り返しの極端な不足
- 状況依存の文脈
- 語彙の不足
一つ目の指示語の濫用については、説明の必要もない。「あれ」だの「それ」だのを乱発していれば、どれが「それ」なのか、さっぱり分からなくなるのはあたりまえである。
二つ目が繰り返しの極端な不足。たとえば「Aは~のような変化を経て、Bになった。Bは……のような性格を持っている、したがってAからBへの変化はXと言える」という文章の場合、「Aは~のような変化を経て、Bになった。……のような性格を持っているから、変化はXといえる」のような文章にしてしまっていることが多かった。「……のような性格を持っている」のは何か、「変化」とは何の変化なのか、を説明していない。これではわかりにくい。
三つ目の状況依存の文脈は、端的に言ってしまえば、文章の背景に関しての説明が不足している、ということである。書いたときにみんなが知っていた話でも、あとから見たときに忘れ去っているということは、非常に多いのである。
四つ目が一番深刻だ。あることを表す適切な語彙を使えないがために、余計な数語を費やし、文章全体をややこしくしている。読んで知っている言葉は数多い。しかしながら、書くときに使うことのできる言葉があまりに少ない。だから、何かを適切に表現できず、文章全体をつまらない、平板なものにしてしまっている。この問題は、一朝一夕になんとかできるものではない。気に入った文章を書く人、たとえば前に述べた前嶋信次や小川環樹などであるが、彼らの文章を写してみることで、解決していきたいと思っている。