興味深い話があったので、それについて。
母にWindowsの基本的な操作を教えていたところ、彼女から思いがけない質問を受けました。
「”Internet Explorer”でも、”Netscape Navigator”でも、エクスプローラでも、『進む』のアイコンは右矢印だし『戻る』は左矢印で共通しているのね。どうして?」
各ソフトが同一の操作に対して異なる記号を割り当てるのはユーザを混乱させる源となる、だからそれらは似たアイコンを使用することでユーザの利便を図っているのだ……と答えようとして、それでは母の質問に対して何ら答えになっていないことに気づく。彼女はなぜ「進む」が右矢印でなければならないのか、なぜ右なのかを訊いているのです。
そんなことは考えたこともなかったので、これは飽くまで私の想像だが、と断った上で次のように説明しました。洋書を読む際には、読み手は左から右に文を読み進め、読み終えた古いページは左に流れていく。多くの西欧人は幼い頃からこうした本の読み方に慣れきっており、「次=右」「前=左」という繋がりを感覚的に受け入れやすい。だからなのではないだろうか、と。
その場はそれで納得してもらえましたが、しかし我ながらこの説明には不十分な点があります。ならば日本語や中国語版のソフトでは矢印の向きが逆転していなければおかしいのではないか、東亜圏のユーザにとって西欧の常識を押し付けられるのは好ましくないのではないか、とか。そもそも伝統的な紙の書物をめくる動作とコンピュータ画面の切り替えとの間にメタファが存立する余地はあるのか、とか。
西暦2001年10月中旬の日記 (Wind Report)
もしかしたらもう言い尽くされているのかもしれないが、文化的なコンテクストとして興味深い。つまり本のメタファがwebに使われているという主題以前に、歴史を自分の体に即してどのように表現するか、という問題が含まれているように思うからである。
まず人間の感覚として、進む、戻るを表現しようとすると、原理的には目の向いているほう、つまり前方が「進む」であり、後方が「戻る」であろう。ところが前方後方は二次元的に表現できない。無理やり表現するとしたら寸ずまりの上と下であろう。しかしそのようには表現されていない。
遡って考えてみると、カセットテープの巻き戻しなども←という記号で「戻る」が表現されていたことを思い出す。これはテープが左から右へと流れるから、それを示しただけともいえるだろう。しかし、ではなぜテープは左から右へと流れるのか、という疑問に戻ることになる。そこで書物まで遡ったのが上記の論である。
現状のwebの世界では時間軸は一般に水平に表現され、左から右へと流れてゆく。これはなぜなのか。上記では本をめくるときのページの流れてゆく方向ではないか、と推測されている。ページがどちらからどちらに進むかは、これは文字の流れる方向で決定される。ところが文字のレヴェルで考えると、まず時間軸が垂直方向か水平方向かという問題が最初に出てきてしまう。縦書き文化であれば上から下だろう(下から上というのは寡聞にして知らない)し、横書き文化だったら左から右か、右から左である。webの表現は巻物であるといわれる。巻物は本より古い歴史を持つ書物でるが。巻物上の紙に文書を記すとなると行がなければならない。では行はどちらに進むか、という議論になる。行の進み方になると、上記の方向が逆転して、縦書き文化であれば一般に右から左、横書き文化であれば上から下へと進むことになる。近代の科学技術文明は西欧起源だから、右から左の横書き文化がそのコンテキストにあるわけである。そんななかで生まれたwebであるから、巻物の西欧的に表現としての「上から下へ」がメタファとして用いられていても良かったのではないか。なのに、そうでない。
こうなるとやはり本の表現として「前後」を「左右」で表したのだと考えざるをえない。こうして本のメタファデザインは、ブラウザに実装され、webサイトはそれに合うようにデザインされる。段組をしたくなるのは、そのような文脈のせいではないだろうか。私たちはまだまだ本というものの呪縛をほどききれていないのだ。縦書きサイトやアラビア文字サイトの違和感、横スクロールを嫌う風潮といったものもこの文脈で理解できるのではないだろうか。CSSLevel 3が実装されても本の発想から脱却しない限り、縦書きのメリットが生かされないような気がしてならない。