大津留厚『ハプスブルクの実験』

推薦版.神聖ローマ帝国の解体を経て、普墺戦争終了後に歴史上珍しい「オーストリア=ハンガリー二重帝国」という国家が形成された。アウスグライヒという協定によってむすばれ一人のハプスブルク君主、二つの政府、一つの軍、一つの大蔵省という形をもつ国家であり、そしてオーストリア(正確には帝国議会に代表を送る諸邦-であって、オーストリアという国家は存在しない)もハンガリー(一方こちらはある程度集権的で、一つのハンガリー王国とみなされた)も雑多な民族構成の国家だった。しかし近代国家たる以上、ある程度の集権化をはからねばならない。それが<軍の統合>であり、<教育の徹底>であった。

前者、軍は言語ごとに連隊が編成された。そして召集地に近い場所に駐屯し、かつ全言語的に均等な召集がなされた。そこで軍隊生活を共同の体験とするわけで、国民統合の一定の役割が軍に与えられた、と言えよう。しかし国民統合の役割としての軍は、あくまで象徴なのである。著者の「ハプスブルク軍は戦ってはならない軍隊だった」は強い示唆を持つ。

ハプスブルクの実験は、軍、行政、教育、議会……とさまざまな範囲に渡って、多民族間の均衡を探るものだった。そしてある程度の「共生」に成功した。その遺産は東欧に受け継がれるはずであった。しかし。クレマンソーの権力政治がウィルソンの理想主義に正当化され、民族自決の神話となったとき、その道は閉ざされたのである。もともと東欧は多民族な地域である。しかも混然とした。そんなところで民族自決は、ひたすら周りを切り落とし続けて行くことでしか得られないのである。それは果たして「実験」の実り豊かな果実と言えるだろうか?それは旧ユーゴ各地の問題をみれば、おのずと明らかたりえる、と私は考える。

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