ペルシア語外来語時事用語表

最近ペルシア語の日刊紙ハムシャフリのウェブサイトを毎日みているが、ときどき見慣れない単語が出てくる。ペルシア語やアラビア語などアラビア文字を使う言語では一般に短母音は文字として表記されない。つまりktbという表記があったとすると、katabaと読むかもしれないし、kitibuと読むかもしれないということである。で、むりやり母音を適当にくっつけて読んでみるものの結局なんだかわけがわからないことが多い。そもそもペルシア語では、読み方も読み手に必要な単語の知識に含まれるのだ。このような状況になると知らない単語はまず読み方がわからない。ましてそれが外国語の時事用語だったりすると実に困ったことになる。

日本語や中国語などでは、NATOはラテン文字のままNATOと表記されるが、アラビア語やペルシア語の場合、アラビア文字に転写される。さらにペルシア語の場合、アラビア文字にいくつかの音価が追加されており、アラビア語の場合と翻字が異なる場合もある。そういうわけでペルシア語への翻字法の原則がよくわからないのである。合衆国のイラン制裁のためかweb上でのペルシア語のリソースが限られており、文字コードをはじめとする基本的な部分でも統一が進んでいない。実際ハムシャフリのサイトもペルシア語文字コードを使うのではなく、ASCIIコードに強引に外字としてアラビア文字を割り当てて表示させるということをやっている。

上記のような状況に鑑みて、ペルシア語外来語時事用語表を作ってみることにした。もしかしたら市販の新しい辞書(といってもPersian-Englishなどだろうが)なら載っているのもかも知れないが、残念ながら私の手元にはない。そういうわけでハムシャフリを例として引こうと思っているが、文字コードの問題があって、コピーアンドペーストするわけにもいかないし、かといってWindows 2000のペルシア語入力ロケールには多くの不備がある。その点が気になるが、まぁなんとかなるか。

イスラーム史料の電子化

前近代イスラーム史においてもっともポピュラーな史料は年代記と伝記である。史料の記述はきわめて整形的であるが、たとえば中国の紀伝体史料に慣れた目などからみると、あまりに事務的に過ぎるようにも見える。

もちろん史料は史料であって、それ以上の何者でもないので、史料と史料を重ね合わせ、その間を歴史家が推論してはじめて一つの物語―歴史観と歴史叙述が完成するわけである。

この重なり合いの部分を発見するのが実に困難なのも事実である。原因は、第一にイスラーム史料における校訂・刊本化の作業がそれほど進んでおらず、なにはともあれ不確実な写本に頼らざるを得ないという現状、第二にそれらがあまりに膨大な量におよび網羅的な年表作成がきわめて困難であるという点にある。

先に記述が整形的であると述べたわけであるが、そこに目のつけどころがあるのではないだろうか。写本というのは一般に数種類の写本が現存し、それぞれに微妙な差異がある。校訂という作業は、これをいちいちつき合わせて原本の史料を復元する作業であり、気の遠くなるような緻密さと時間が必要となる。そのように考えれば刊本化が進んでいないのは当然といえるが、写本そのものをXML化し、これに必ずOBJECTとして写本のフィルムをつける、というのはどうであろうか。適切なDTDを記述すれば、写本段階である年代や、ある人物についての一定記述を網羅的に表示する、などのことが可能になるはずである。そのようにすれば共同作業としての校訂も可能になるし、なにより一人の人間が史料を読み解くことがより容易になるのではないだろうか。工具類の習熟に20年程度が必要になるということは、あまり効率的ではない。もちろん円熟しておればこその作業もあるだろうが、一方で史料へのアクセスの壁に阻まれて歴史を研究できない害も大きいだろう。

東洋文庫や、東京大学東洋文化研究所で、アラビア語、ペルシア語、トルコ語の文献索引のシステムが考案されたり、イスラーム地域研究第6班によって資料の収集が行われている。前者はアラビア語における格・性・分詞変化の解析システムさえ整えば全文検索システムとすることができるのではないか。ここで一気に電子化してしまうのも一つの手であろう。

今次テロ研究会

研究会の概要

IASのメーリングリストで次のようなお知らせが回ってきたのでいってきた。

東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 緊急特別研究会 「いま、中東とイスラームを考える」

9月11日に米国で発生した同時多発テロ事件については、当初からイスラーム過激派の犯行が疑われ、米国政府はターレバーンへの軍事報復の準備を急速に進めています。日本国政府はこれに対する可能な限りの協力を約束しました。

このような状況のもと、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(AA研)は、関係各方面の協力を得て、下記のとおり緊急特別研究会を開催いたします。中東・イスラーム世界各地の現況や、今後予想される事態について、専門研究者の眼で問題点を指摘し、現時点で可能な分析を行なう機会といたします。各報告は20分とし、その後1時間にわたりフロアとの質疑応答・意見交換を行う予定です。

なお、会場の都合上、本研究会への参加は原則として研究者と官公庁、報道機関関係者、および研究者を通じてこの情報を得た大学生・大学院生のみとさせて頂きます。皆様のご参加をお待ち申し上げております。

  • 日時: 10月1日(月)午後6時00分~9時30分
  • 場所: お茶の水スクエアA館3階・ヴォーリズホール
  • 参加費: 無料
  • 報告:
    • ハッサン・バクル(AA研客員教授:イスラーム過激派研究)【英語】
    • 飯塚正人(AA研助教授:「イスラム原理主義」研究)【以下日本語】
    • 縄田鉄男(東京外国語大学名誉教授:イラン・アフガニスタン研究)
    • 臼杵陽(国立民族学博物館地域研助教授:パレスティナ問題研究)
    • 小松久男(東京大学大学院教授:現代中央アジア研究)
    • 黒木英充(AA研助教授:近現代シリア・レバノン研究)
    • 酒井啓子(アジア経済研究所研究員:現代イラク研究)
    • (司会:黒木英充・飯塚正人)
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どんぱちで得をすること

第1回につづいてのメモである。どうも今週中にアフガニスタン攻撃があるという噂が飛び交っているが、その利益はいったいどこにあるのか?という議論をする。もちろん心理面や、理念面でのメリットはあるのであろうがリアリスティックに考えた場合どうか、ということである。

前回触れたように、アフガニスタンにはほとんど資源はない。占領したとしてもほとんどいいことはないにひとしい。唯一トルクメニスタンからのパイプラインの話があるが、それとてもかえってイランを通すほうが場合によってはより経済的でありかつ政治的厚生も確保できるかもしれない。攻撃がおこなわれても、軍需景気をまきおこすほどのインパクトもなく、到底米国GDPの10%にも及ぶまいと思われる。そうなると得をするのは武器屋とテキサスの油屋だけだろう。しかもその武器屋にしても米国の使用する高機能の武器を生産し、経済に貢献する武器屋ではない。旧ソ連のカラシニコフなどをさまざまな武装集団に供給するブローカーである。一般にウンマ(イスラーム共同体)に対する攻撃があるとムスリムは被害者感情を覚える。政府は冷静な対応をするであろうが、それを抑えられない感情的な者が増える。そうすると小型武器が売れるのである。

9月24日付の朝日新聞の天声人語が渡辺一夫の「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」がひかれている。ここに述べるように、寛容さを脅かすものに対する憎悪は、不寛容である。つまり自らも寛容を脅かす者になるのである。不寛容に対する不寛容は不寛容を増幅する。ホワイトハウスはもとよりこのようなことは自覚しているであろうが、合衆国国民の多くがそれを認知せぬまま合衆国は感情的な戦争に突入しようとしている。そして、その感情こそが、民主主義の敵たりえるのである。感情的なつっぱしり(イスラーム的に考えればテロはイスラーム的であるとは断言できないし、そもそもジハードにはいろいろとやり方があるはずである)に感情的に反撃する。これは容認できない。もとよりテロは好ましくない。しかし感情的なテロに感情的に反撃しては、さらなる感情的な憎悪を増幅させるだけである。そして理性的な対策には合理的な根拠が必要である。合衆国6,000人の命の報復にアフガニスタン国民をまきこむことを納得させられる合理的な根拠が。合衆国は証拠を示す必要があるのである。そうでなければ、合衆国の攻撃は、単なる言いがかりによるもの、としかいえなくなる。

さて、資源のわりにはアフガニスタンは地政学上の要地である。南西アジアのへそともいえよう。しかしながら、である。要地でありすぎて、ここをいずれかの勢力が支配するのは、他の勢力にとっての不快感からいうととんでもないものがある。であるから、この地域に強い政府ができることはパワーバランスからいって好ましくないのである。

まず独自に強力な政府が成立して、いずれかの周辺国と友好的に関係になることは、それ以外の関係国にとって不快である。ターレバーンが政府を確立すれば、パキスタンには好ましく(よって中国にも好ましく)、イランとインドにとっては好ましくない。逆もまた真である。イランが今回の事態に対し強い不快感を示さずほぼ暗黙の了解という態度をとっているのもそのためである(もちろんシーア派ハザーラ人の敵であるターレバーンはイランの仇敵である)。ということは合衆国は攻撃するだけ攻撃して終わりであって、そののちになんらかの安定的体制をつくる努力をするとも思えない。下手をすると北部同盟が今度は敵ということにもなりかねない。かといってアメリカはパキスタンを無視することはできないであろう。なぜならパキスタンは王政イランなきあと、中央条約機構のもっとも重要なメンバーであるからである。

だいたいがラーディンという存在自体を合衆国が育てたわけで、ラーディンに金を出し、北部同盟に金を出し、また……ということになると合衆国の節操のなさには二の句がつげない。ただのならず者育成機関ではないか。というわけで戦争が起これば、実に非生産的な戦争となるであろう。そしてまたイスラームというものにたいする偏見と誤解が広がるのである。

アフガニスタンについての復習

アメリカ国務省は、例の同時多発テロの首謀者をビン・ラーディンとする発表を行った。ラーディンがアフガニスタンのターリバーン政権に匿われているのは周知の事実である。ラーディンについてはよく知られている。サウジアラビアの大手ゼネコン財閥の息子で、ムジャッヒディーンとしてソ連のアフガン侵攻に対して戦った人物である。今回は、ターリバーンとアフガニスタンについて復習をしておこう。

ことはアフガニスタンの建国まで遡る。そもそもアフガニスタンという地域は、山がちで強力な中央政府があったためしはない。むしろアフガニスタン域外までも支配する強力な帝国の一部として機能していた。たとえばティムール朝は後半にヘラートに政権を作ったこともある。しかしそれはアフガニスタンの強勢のゆえではなく、アフガニスタン西半は古来イラン世界=東方イスラーム世界の主要な部分を形成していたためである。

時代は下って19世紀。東方イスラーム世界は、大英帝国とロシアの草刈場であった。イラン、アフガニスタンの沿海部はインド帝国防衛のために大英帝国にはなくてはならない地域であり、ロシアは伝統的南下政策により、中央アジアを併呑した後はじわじわとイラン、アフガニスタンに迫ってきていた。

必然的にロシアと大英帝国の勢力はヒンズークシ山脈付近で激突する。両国ともこのアフガニスタンの地を制圧しようとしたが、師団単位であえなく敗退する。とりたてて資源もないこの地をそこまでして押さえなくてもお互いの進出を防止すればよろしい、ということで出来上がったのがアフガニスタン王国である。つまり山岳地帯で谷ごとに部族が勢力を争っていたようなところに、緩衝国家として張りぼての中央政府を成立させたということである。これはアフガニスタンの地図をみれば一目瞭然である。北東部に中国に向かって細く突き出た回廊がある。こここそが、インドとロシアを直接に接しないように強引に設定された国境なのである。この地に関するエピソードが『燃え上がる海』に載っている。それによると、この回廊をアフガニスタンの王は欲しがらなかった。しかし英国としてはなんとしてでももらってもらわなければならない。そこで金まで払ってもらってもらったということだ。珍しい話である。

つまりこのように勢力の狭間にありながら、なんにもないところなので必然的に植民地政府もなりたたず古い体制のままほったらかされた場所なのである。そんな場所は地政学的にはかえって隙間として大国にとって気になる場所となり、ソ連もほうっておくことができなくなったのである。

当然ソ連が侵攻してくればアメリカはこれを阻止せねばならない。このときアメリカが目をつけたのがムジャッヒディーンである。もともと武勇の誉れ高い住民に武器をばら撒いてゲリラに立ち上がらせ、さらに湾岸などで社会不安のもととなっていた若年失業者をイスラームの大義のもとに駆り出して、ソ連に対抗させたのである。

で、ソ連が撤退しても武器はそのままだから、もともといない「アフガニスタン人」などという幻想は崩壊し、昔ながらの部族同士の血みどろの争いがはじまったわけである。そこに綺羅星のごとくパキスタン方面から現れたパシュトゥーン族主体の勢力がターリバーンである。アフガニスタンが国際政治の異形の産物であったとするなら、ターリバーンはそのアフガニスタンで引き起こされた内戦の異形の産物であった。おそらくもっとも厳格なイスラームであるサウジアラビアのワッハーブ派に近いと思われるが(しばしばサウジアラビアが親米であることから誤解されるが、イスラーム世界でもっとも厳格なイスラームを奉じる国はイランでもなくスーダンでもなくサウジアラビアである)、どこからともなく湧き出てきた、という印象がある。それは内戦の生む難民のなかに、次なる政権のヒントが秘められていたことを示しているだろう。

今のターリバーン政権は、イスラーム復興というより伝統墨守とみるべきであろう。その意味では原理主義ではない。伝統を守ろうとするものにとってこそ、アメリカは最大の敵たるのである。

  • ところでマスードが死んだとか死なないとか。

報復の論理

アメリカ政府はたしかに断固とした報復に望むようだ。ステートメントを読む。

The search is underway for those who are behind these evil acts. I’ve directed the full resources of our intelligence and law enforcement communities to find those responsible and to bring them to justice. We will make no distinction between the terrorists who committed these acts and those who harbor them.

Statement by the President in His Address to the Nation

上の強調はわたし。特に最後の部分をどのように読むかが重要である。テロリストも援助者も区別しないでjusticeに付すといっている。いったいこのjusticeとはなんなのか。これを全ての人に説明できれば、アメリカのやったことは正しくなるし、普遍的な価値観が世界にあったことになる。しかしながらおそらくこれはアメリカの考えるjusticeであろう。とするならば、以下の問題が出てくる。

The deliberate and deadly attacks which were carried out yesterday against our country were more than acts of terror. They were acts of war. This will require our country to unite in steadfast determination and resolve. Freedom and democracy are under attack.

Remarks by the President In Photo Opportunity with the National Security Team

ゆえに我らも戦争に対して戦争をもって報いる、という論法である。これはきわめて危険な論理である。なぜなら理念的には戦争とは国家と国家の間で戦われるものであるからである。テロは国内法上の犯罪として扱われ、戦争は国際法上の戦争法によって規定される。ところがブッシュ政権はテロに戦争を適用しようとしているのである。一般に近代国家の刑法は、犯罪に対する復讐を禁止している。正当な法律的手続きにのっとって犯人を逮捕し、裁判によって裁くべきものなのである。ところがこれを戦争とすると、無制限の報復を許すことになる。ある意味アメリカはテロと同じ土俵に乗ってしまったともいえるのである。しかし先述のように、今回のテロを許すことは、現代の国際社会にはできない。苦しい選択であったと思われる。

米国同時多発テロについて

昨日夜に見た惨事がさらに恐ろしいことになっている。なんとビルが倒壊。国防総省が攻撃される。さらに1機が墜落。4機も同時にハイジャックされるとはなんというセキュリティの甘さか。それよりもっと甘い日本にいると思うとぞっとする。

ところで映画などでハイジャックして、飛行機もろともどっかに突っ込む、という設定のものはあっただろうか? 人質を使わないハイジャックがこれほど恐ろしいとは。とりあえずは情緒的に怖がってみる。

もう一つの恐ろしさは、この事件が、テロによってここまでできる、ということを示してしまったことだろう。数千人規模というのはあの阪神大震災並みである。戦争によってではなく、テロによってここまでできるのである。抑止は相当に難しいに違いない。アメリカが犯人に容赦しないし、諸国がこぞってアメリカを支持する理由もここにある

イスラームとの関わりはいまのところよくわからない。実際にイスラーム過激派による犯行であったとしてもアメリカ国民には、アラブ系住民や、単なるムスリムに対して偏見をもたずにいることを望むが、果たしてどこまで可能だろうか? 一方のアメリカの民主主義も試されている

ところでパウエル国務長官の顔、めちゃくちゃ怒ってて怖かった。眉毛が45度くらい。

西洋近代批判は西洋近代を楽しめぬ者にとっては単なる無知である

昨日の夜、酔っていたためかブラームスのピアノコンチェルトを聴いて涙してしまった。

私は史家を志し、そしてまた「近代」の概念に呪縛されて歴史をみる西欧中心主義に対しては大変に批判的なものである。しかし、私たちが生きるのはその西洋近代の恩恵を多大に受けた現代社会であることは事実である。ここで歴史観の「近代性」を批判することは大変に容易なことであるが、批判にはその代案を示す、という重要な責務が待ち受けている。

単に批判するだけでは、「無知」である。外国語や仲間内を席巻するポピュラー音楽へ親しめなかった落伍者がその負け惜しみに批判する。実に意味のない構図ではないか。

では、どのようにあるべきなのか。私はこう思う。すなわち、西洋近代を充分に楽しみ、そのメリットもデメリットも知らねばならぬ。政治制度や経済制度をみるだけ、あるいは文字に浮かび出る文学や哲学をしるのみでは不十分である。音楽を楽しみ(もちろんクラシックもポップスもなにもかも)、絵画を深く見つめ、話し合うことが大切だと思う。

すくなくとも批判者にはその対象への興味が必要だと思う。現代の構図の上で興味もなく、「意味がない」「理念が間違っている」と批判するのは単なる原理主義か、あるいは単なる負け惜しみなのだ。

社会史文献を読むだけで、社会を知ろうとしない者は、本当は興味がないか、自分を殻で武装しようとしているにすぎぬ。季節と同様時代や理念もかわる。往く秋をおしむ。この感覚が史家にも求められると思う。中世の秋、そして今近代の秋を暗黒の時代として一蹴し、ひたすら「悪」の名に染めるのはどうか、と思う。

メディアリテラシーを考える

ゼミがおもしろくない。基礎知識にかける、ということは全くの事実であるが、議論の不活性も充分に効い ている。週に1時間半ではとてもではないが発表前の事前知識の収集もおろそかになる。むしろ週1度みんなが顔を合わせることを重要視して、事前にみんなの 基礎学習などをメールでお互いに交換する位した方がいいように思う。原稿を読むだけの発表スタイルもよくない。せめて発表者は、「次に……をご覧くださ い」くらいの指示を出さないと発表者と聞いている者の関係は薄れ、発表自体に興味がないと思わせることになる。大学での研究会のあり方は様々であろうが、 ここまで大衆化が進んだ以上、そしてここまでネットワークが発達した以上、もっとやりようは考えられると思う。研究室はその専門知識のデータを社会に提供 すべきだと思うし、また教授もネットワークを活用して、うまく介入するべきである。

最大の提案は、研究会の最初の数時間はメディアリテラシーの基礎教育と、プレゼンテーション技術、ディスカッション技術の教育に当てるべきであると いうことである。はっきりいって学生は参考文献の書き方も、どの雑誌に何がのっているか、ということを調べる技術ももっていないといってよい。ここでまず 効率のよい調べ方を教えておかないと、むだな探索に労力をかけ、研究それ自体の意欲が衰えていってしまう危険性がある。また研究者は往々にして、ビジネス 書を軽視しがちであるが、たとえば日経文庫などで提供されるさまざまな議論の仕方、発想法、セールストーク、データ管理、職場内教育などの書物は、効率を 目指すビジネスの世界であればこそ、非常にまとまっており実用的かつ有用な知識を与えてくれる。もちろんビジネス系の「知的……」などの古典解説書や歴史 をわかったようにさせる書物は危険ではあるが、ビジネスの「方法」は学んでおいて損はない。

とりあえず様々な文献があるという楽しさをしることが重要だ。研究会以前では、レポートを単一の書物に拠り、その書物のよ要約をつくることと誤解している人があまりに多い。せめてブックレポートとレポートと論文の違いくらいわきまえさせることが必要だ。

ここに有用な書物がある。

  • 河野哲也『論文・レポートの書き方入門』慶應義塾大学出版会,2nd ed.,1998

この書物はブックレポートからまず作ってみよう、ということで作りながら学ぶ、という実践的な書物であり、単なるレトリックの問題のみを扱った書物や、研究の方法論といった小難しさをクリアしている書物である。一度使われることをお勧めしたい。

イラン・イスラーム革命研究史

終わりそうな夏休みを悔いても仕方がない。なにしろ今週末はイスラム史のゼミの合宿であるのだから。課題は1万字程度論文を書くことである。実はいまこれを書いている段階で、テーマも決まっていない。イラン・イスラーム革命と日本の双方向関係を見てみたいという甚だ大まかなことしか考えていない。図書館もすでに閉まった。万事休すである。というわけで適当なものを提出するしかない。発表、ペーパーの作成だけだったらともかく、論文はすでに不可能。私の怠惰さはここにおいて再び自覚されることになってしまった。

とりあえず史学会(東京大学)の「史学雑誌」の5号に毎年掲載される前年度の歴史学会回顧を1979年のものから全部読んでみた。ここでいくつか感じたこと。


実は、イラン革命の総説的な書物は日本語ではほとんど出版されていないようである。イラン革命がおこった直後はあまりにジャーナリスティックな話題として避けられたためであろうか。その後、アメリカ大使館占拠事件が起こってからは日本の報道もアメリカに追随するかたちになりイラン=反米構図にのっかってしまった。論としてはそれへの批判(サイードのオリエンタリズム批判の亜流)や、イラン革命をさらに一般化して全体的な「イスラーム原理主義」にファクターが移り、イラン革命の個別研究はなくなっていく。一方でジャーナリスティックな「原理主義」観批判としてイランを歴史的に見ていく立場ではむしろパフラヴィー朝が倒れてやりやすくなったためなのか、第一次世界大戦前後になるイラン立憲革命研究が主流となってくる。さらに国際政治学的には革命からほぼ連続しておこったイラン・イラク戦争、湾岸戦争へと移っていき、中東地域レヴェルの話となってしまった。経済学的な成果はイスラーム経済というわけのわからない体制であり、かつ戦時下ということで成果はほとんどないように見える。そしてハータミー師の大統領就任からの雪解けムードになだれこみつつある。もちろん地域全体のことの連続面の一つとしてイラン革命を見ることは重要であるが、逆にイラン革命が前後にどのような影響をおよぼしていったのか、といった主題設定もありえる。ひとつ目の区切り目における研究としてイラン・イスラーム革命の学際的な成果が必要とされているのではないだろうか。