渡辺晃宏『平城京と木簡の世紀(日本の歴史04)』

本書は天武朝から称徳朝にいたる約一世紀の間の日本の歴史を追う書物である。

この時期は、部族連合的な大和王権の限界を乗り越えて律令国家日本を建設してゆく時代と位置づけられる。天智の跡を受け継ぎ天武・持統・不比等と代々受け継がれる強烈なまでの律令国家の完成への営みが主題となる。国造の郡司への転換をはじめ、中央政権の権威の確立と地方支配の強化は、まさに「日本」という国の原型を形成していった。政治史的に日本を日本として扱えるのはこれ以降である。そのような中心のテーマについて10年ほど前までに出土が相次いだ平城京の木簡研究の成果が取り入れられて効率よく展開される。

私は、平城京の時代というのは仏教を中心とした文化史と血なまぐさい陰謀史、そして律令理念の強行による庶民の辛苦、という印象を強く持っていた。これは私が学んだときの教科書の印象であったかもしれない。しかし考えてみれば、文化史と陰謀だけで政治が動くというのはおかしなもので、その裏には制度確立への政治過程もまた存在していたはずであった。本書はこれを非常によく説明してくれる。そして同時に称徳帝の死とともに奈良朝は終わり新しい時代がはじまる、という不連続の面とは別に、平安朝へと受け継がれていった連続の面も大きいはずである。

そしてその連続とはまさしく律令国家の成熟であることが説明される。著者は墾田永年私財法について「これほど長い間誤解されてきた法令も珍しいのではなかろうか」(p.225)という。墾田永年私財法は三世一身法とともに公地公民制をなしくずしにし、律令制の崩壊を招いたものと捉えられ、私もそう教わった。

このことは、中国における土地の所有というものを、古代から一貫して王土観念から来る「均」の発想による規制と現実重視(特に土地の細分化阻止の政策として)としての「勢」の発想による自由化のせめぎあいとして捉えられる、という岸本美緒氏の指摘を知ってから疑問に思っていたことであった。つまり前記の教科書の説明から考えると、日本においては結局国家は全体的な土地支配を掌握せぬまま、なしくずしに自由化に向かい、結局日本においては土地支配の完成は太閤検地に至るまで権力が放棄してきたことであると考えざるを得ない。しかしそのようなことがあろうか?

著者は二法制定の意義を中国法の単なる継受に過ぎない「大宝律令を日本社会に適した法令に生まれ変わらせようとする努力の痕跡」と受け止め、その根拠を説明する。そもそも中国の均田制は

  • 一定の基準による国家の田土の分与
  • 田地所有の限度設定

という二つの制度を柱としている。ところが日本の班田制では前者のみを継受したため限度設定額そのものを班給した。当然、受田額は限度に最初から達しているためそれ以降の開発は単に収公されるだけで開発者にとってなんのメリットもなく、開発が行われないという融通のきかない制度となっていた。この修正が二法であったという説明である。むしろこれによって初めて新規開墾地を含めた土地支配の掌握が完成したわけであり、律令国家は一段と完成に向かったと見られるのである。

ということはやはり土地制度の崩壊というより一種柔軟なシステムの完成であろう。ここにようやく次代の「名」への再編を視野に入れることができるわけで、いつの間にか班田から荘園へという印象を拭い去ることができるのである。

ほかに母系からの帝位継承にかかわる正当性の付与(元正を聖武の母と擬す)や、現人神たる天皇の上に仏をおき、律令国家における神と仏の習合という観点(聖武天皇の出家)、皇后として光明子が天皇に近い権力を持っていたことなどの観点が興味深い。また長屋王の変に関しても一概に藤原対反藤原としてみることを戒めている。

聖武天皇についての従来の神経質でひわわであるというイメージ修正することが多くなっている(瀧浪貞子『帝王 聖武』講談社メチエ)が、本書もひよわな聖武と藤原氏の陰謀という見方で失われてしまう律令国家の形成期を鮮やかに描き出しているといえよう。

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