秋の満洲調査団計画

三田の怪しげな団体の怪しい人たちによる上記計画が発動された。10月の連休らしい。もうすこしあとだと思っていたのだけれど。ここ、もろに京都での学会と被るので悩ましいところ。

満洲方面は東京からだとOZが便利なのだけれど連休だからICNまでは席うまってるげだし、空組優先でCZだと高そうだし、だいたい東京-瀋陽ー青島ー哈爾浜とかわけのわからんルートになりかねない(東京ー北京はJL運航の共同運航のため、CZ自社便にすると変なところに行かざるをえない)。なやましいところだ。とりあえずNWの特典使えるかを聞いてみるのが先かな。

お出かけ帰り

8月6日から19日まで、アテネ、クレタ島イラクリオンイスタンブルにいってきました。ギリシアのサントリーニ島とかミコノス島とかはとても有名なリゾート地で有名ですが、十分な日程がとれなかったし、旅程の決定が出発前夜になってしまったので(いつもの悪い癖)、訪れることはできませんでした。それでもギリシアでは十分にバカンス気分が味わえたので非常に満足でした。4月のニューヨーク以来、ひさしぶりの海外でした。

アテネはなんとなくローマをうらぶれさせて、さらに治安を悪い感じにしたようなところだと勝手に思っていたのですが、それが大違い。オモニア広場というところの西側など夜になると多少あぶない感じのする場所はあるのですが、少なくとも観光客がいるような場所は非常に安全でした。とても宵っ張りの町で曜日によっては24時までやっているような博物館もあるし、観光用の乗り物もお客をたくさん乗せて24時ころに平気で走っているし、おみやげ屋さんもやってる。日差しの強い昼間はオープンカフェの日陰でダラダラして涼みます。日陰なら湿度が少ないのでとても快適。自由に時間を使って観光することができるような、すばらしい町でした。もっとも非常に目を引くものがたくさんある、というわけではないのですが。そのおかげで余った一日、よく一日クルーズで訪れる三島のうちのひとつ、エギナ島にいって、無駄に1日ダラダラしてきました。

イラクリオンも、アテネに劣らず宵っ張り&ダラダラ生活。人は少ないし、物価もより安いし、海産物もおいしい。観光客はヨーロッパ各地から集まっているのですが、みんなバカンスモードで、忙しい「観光客」とは違った感じで町を歩いているので、これまた居心地はいい。クノッソスなしでもまたいってもよいなぁと思える町でした。

一度アテネに戻ってからイスタンブルへ。坂でヘロヘロし宿の階段でヘロヘロ。観光客も地元民もいっぱい。コーラ修道院とかハギア・ソフィア大聖堂とか私の大好きなビザンツ美術をはじめとするビザンツものに溢れる町。そしてオスマン帝国の至宝もトプカプにいっぱい。客引きもいっぱい。中東の「うざったい」感じとヨーロッパをあわせた感じの不思議な町。

まがりなりにも予備知識はあるので見たいものが多かったのですが、それほどの活動もできませんでした。5日しかいられず、しかも1日は倒れかけていました。おまけに市内の交通の便もあまりうまくできているとは言えないし、名所も15時には閉まってしまっても原因だったかな。ついでにちょっといろいろ高い。観光地観光地した店や場所と、そうでないところがハッキリ分かれている感じもあって、居心地は悪くはないもののよくもない。あげくに「うざったい」攻撃を数度受けたうえに、タクスィムの渋谷以上の人出で疲れはてました。ギリシアとイスタンブル、あきらかに逆にするべきだったなぁ。

とはいえ、ガチなイスラームのにおいはやっぱりあまりしなかった気がします。もちろんワッハービーくさいのもいるし、アザーンは非イスラーム国では公害で訴えられるであろうほど、うるさいのは当然です。でも、イランにいって「いい加減さ」を感じた私としては、こちらの感覚はいい加減どころの騒ぎではなくて、宗教は個人の宗教になりつつあるのかなぁ、というイメージでした。体の線がやけにハッキリしたピチピチのTシャツ着た女の子がヘジャブ被っているさまなど、ファッション的な色合いも感じないでもありませんでしたし。つまり何がいいたいのかというと、この町では平気でビールが飲める、ということです。

今回は初めてのシンガポール航空。いつもならKLMかエールフランスを使うのですが、ぼーっとしているうちに安い券が売り切れ。残ったのがSQかカタール航空だったわけです。で、A380も乗りたいので前者に。SQのこの機材、とてもよかった。アッパーデッキのペア席にしたのですが、ディスプレイ大きいし、USBの口とか電源とか至れりつくせり。行きはNRT-SIN-ATH、帰りはIST-DBX-SIN-NRTとエライ時間はかかるし、スターアライアンスはエリートステータスもってなくてラウンジとかも使えなかったのですが、思ったほど苦じゃなかったです。

帰ってきたら給湯器が壊れててお風呂は入れないとか、差し迫ったいろいろなお仕事とかいっぱいあって、あっというまに旅行中の記憶をなくしそうなので、備忘録的にめもっときます。写真とか整理できたら多少貼るかも。

近況

ふりかえると2006年初夏からほとんど更新していません。再開してみてもグータラでずっと放置で、そのうちコメントスパムがあふれだし、さらにやる気をなくして放置延長に至っております。そういうわけで、まとめ的にここ3年弱のまとめ、のようなものを書いておくことにします。

生息地変更

生息地といっても昼間の生息地のことです。10年近く三田に生息していましたが、2007年度から某西北方面の某宿敵大学に籍を移しました。06年度から西北方面でバイトをはじめ、07年度には籍を移し、さらに08年度からは任期付きながら常勤職に就きました(その結果、兼業規定にひっかかるため三田・地下でのバイトも卒業)。こう見ると3年かけて事を進めた筋金入りの売塾奴ですね。いまだに週に2日くらいは三田に夕飯を食べに行きますが肩身の狭い思いをし続けています。

で、この生息地変更に伴う変動というのがいろいろとあります。いや、本来あんまり関係ないのかもしれませんが、基本的に私のいろいろは環境に規定されるところが多いので。かわっていないのは、延々、東洋史学を専攻としながら、コンピュータやネットワークで身銭を稼いでいる、という矛盾した状況だけ、ともいえそうです。今年度に至っては業績すら専攻外のもののほうが多くなっちゃいました。大問題です。大問題ですが、仕事だし、仕方ないかな。

読書傾向

3年くらいまえまでは、読了にあるように、雑食気味ながらかなり色々な本を読んでいました。これはどうやって実現していたかというと、三田・地下で毎週ゲットできた日販図書館情報サービスの『ウィークリー出版情報』という雑誌によるものでした。これは一般的な流通ルートによる、ほぼ全ての新刊書が掲載される雑誌で、図書館の選書セクションなどではおなじみの刊行物です。『ウィークリー出版情報』で新刊を確認してリストを作成(これが読みたい本リストでした)。そのうえで学術系は大学図書館で、そうでなければ港・文京・都立の各公立図書館で借りて読んでいたのです。

ところが、私が西北方面にいったこと、それから地下の人事異動で『ウィークリー出版情報』を取っていた方が矢上に転出されてしまったことで、同誌に接することができなくなってしまいました。一度やり方を確立してしまうと、ほかのやり方を試すのも面倒で、新刊リストに目を通すことができなくなり、結果として乱読傾向はほとんど陰をひそめてしまったのです。

で、ここ1年読みまくっているのが集英社のコバルト文庫です、なぜか。昨年春あたりに「マリア様がみてる」シリーズにはまったのがきっかけでしょうか。思えば、小学校・中学校のころは、まとも系文学に田中芳樹とか栗本薫とか水野良の古典的ライトノベル(いまのような萌え萌えとした意味合いはなかった)を読み、高校時代はやおい小説(いまのボーイズラブとは少し違う)と新書本を読みまくり、学部時代は海外ファンタジーと研究書を読み、院生になってからは超雑食と変な読書遍歴です。

そしてここに来てコバルト。もう、難しい本に食指が伸びず。また毎日かったるそうに生きてる男子が主人公+萌え系な電撃とか富士見ファンタジアみたいなのは全然そりがあわず(「涼宮ハルヒ」とか全然だめ)。というか、属性とかで「キャラ立ち」させてるのが、なんかヲタ(自分もヲタだが)の変な承認願望だの性的視線が透けて見えてキモチワルイ。そういうわけで、とにかくひたすらコバルト。けれど1年読みまくっていると、もう既刊の半分くらいは読んでしまっているはず。玉石混淆な少女小説文庫にあっても「玉」のほうはもうあらかた読んでしまっている予感があるわけで、これから一体どうなるのだろうかと不安です。

読み尽くしたら、ファンタジーに立ち戻って、未訳のものを英語でそのまま読むとかがんばれちゃえばいいなあ。いや、専門のものやれ、という話はありますが。でもなぁ。もう、世界とか社会とか、あんまり興味がないんですよね(ホントか?)。ダメなときは何をやってもダメ。どうせダメならコバルト読んで酒飲んで寝よか、ってなものです。

ひきこもり願望の加速

毎日みんなでワイワイしたかった学部のころがウソのように、人嫌いが加速してます。いろいろな人にあいたい、そして時々、その人たちの力になれるのがうれしい、そんな時代がありました。もういまや、なるべく新しい知り合いは増やしたくありません。1人ふえるごとに変なしがらみと面倒ごとが降ってきそうな予感というのがあります。

それどころか、そもそも知らない人と話すのがイヤ。なぜかここのところ機会が増加している立食パーティーなんてのは最悪でひたすら時間が過ぎるのをビクビクして待っていたり。同じ牛丼屋でも、吉野家は食べ終わったときにどのタイミングで店員さんに声をかけて支払いをするか、そのタイミングを計るのが実に億劫なので、黙って食券を出せばいい松屋のほうが好き。知らないお店にも滅多に入らなくなってきていて、ファミレスとかファーストフードのほうがはるかにくつろげたり。

もう典型的「非コミュ」ですね。ということで、非コミュ指数をチェック。やってみたら0でした。あれ? あるいは。「しゃべりたくない」のではなくて、しゃべるのも面倒なだけかもしれません。ご飯食べるのも一人だと面倒でやる気なくすし。腹が減る自分に腹が立ったり。とにかく、なんかやんなきゃいけないこととか、何時にどこにいなくちゃいけない、とかそういうのが増えたことへの反動なのかもしれません。社会的に見たら、どう見ても好きかってしてる部類に入るでしょうが、それでもなんか束縛感がすごい。

ほんと、メールと電話は勘弁してください。誰かのいいぐさじゃないですが、早く引退したい。

お出かけ増える

ひきこもりしたいのに、一昨年からむやみやたらとお出かけが増え、昨年後半はほとんど異常ともいえるほど。これも環境変化の影響です。

2007年の3月にイタリアへ1週間。約8年ぶりの海外でした。以降5月から6月に3週間ほどイランとドバイ(3日)。8月の一番くそ暑い時期に1週間弱、京都。12月から1月にかけて1週間パリ。

2008年にはいって、やたらと出張が多くて、6月に資料あさりに1週間半ロンドンとパリ(3日)。8月に旅行で2週間半ドイツとパリ(2日)。9月に学会発表で京都。9月から10月にかけて運び屋で2週間半テヘラン。10月末に資料あさりに1週間ロンドン。11月半ばに研究会で神戸。後半に学会で1週間ワシントンD.C.。12月半ばに学会発表で北九州・福岡。年末に旅行で1週間半ドイツ。

とにかく忙しかった。おまけに6月のロンドンのときは、1STG=200JPYくらいで計算しないと出超になるくらいだったけれど、いまや120JPY。世界的不況を体に感じながら歩き回った1年でもありました。これからも3月までに少なくとも2回は国内出張(札幌と大阪か京都?)と上海行きがあります。さらに逃亡生活的にヨーロッパに逃げるかもしれません。引きこもりたい人がやることとは思えませんが、国内にいるとメール返信したりとか電話に出たりとかが期待されるので(海外にいても期待されましたが、まだ言い訳できるだけまし)、そのせいか。んー。

使用機とかの遍歴

ずっとまえにこれまで使ってきたPCとかを書いたことがありましたが、その後。って、これ8年前か。ちゃんと思い出せるかどうかわかりませんが。

SONY VAIO PCG-SR9M/K
2001年8月〜。この子をメインマシンとしていたのは2004年の春くらいまで(たぶん)。その年の夏から留学に出たSさんにお貸しして2年間のテヘラン生活を経て、私のもとに戻ってきていますがいまだに故障もせずに動いています。VAIOとは思えない。いまはサーバのコンソールみたいな扱いになってます。
IBM Thinkpad X31/D9J
2003年8月〜2006年晩秋。すばらしいマシンでした。B5モバイルながら増設バッテリを使えば10時間弱の動作で、パワーもそこそこある。この頃が一番コンピュータとネットワークを使っていた時期なのではないでしょうか。最後はマザーボードが焦げ付いて修理に9万円掛かるとのことであきらめました。部品取りに使用。
iMac G5 – 20インチ1.8GHz
2004年11月〜。初Mac。家で母艦的な使い方してます。HDDは何回か交換。もう4年以上つかっているんですね。随分と使い勝手が良かったのですが、昨年末にバックライトがへたり掛かったので(全面切れではないので、やや暗い程度で使えています)、そろそろ入れ替え期。はてさてMac Proが出るのが先か、iMacの新しいのが先か。
MacBook Pro – 15インチ2.33GHz
2006年11月〜。予算もの。Airを買うまで1年半、このマシンをメインに持ち歩いてました。毎日3kg近くを持ち歩いていたのだから、私もスゴイ。このときからWin環境はパラレルズに放り込まれることに。ただ、このマシンはとにかくぶっ壊れまくりました。何度も何度も修理されており、ロジックボードですら3回も交換されてます。ケースや液晶も交換が入っているので、製造時の部品はおそらくもはや全くないのではないかと。こいつも今年で3年目か
MacBook Air – 初代/HDDモデル
2008年3月ころ?〜。MBP持ち歩きに慣れた後は軽くて軽くて。よろこんであちこち連れ回していますが、いまのところ快調に動いています。余計なものつっこまなければ問題ない。

ほかのガジェットだのなんだのはまた今度書く方向で。以上、最近の私の傾向でした。

帰る

起きて酒飲んでWebを見たらMacBookが出ていた.軽くて!長持ち!なMacを求めていたので正直がっかり.これならMacBookPro買うよ.ハゲの限界.一方黒いことが大切な人が半狂乱になっていたのを眺める.買えば,と言ってみたり.昨日はあちこち行くぞ!と思っていたが,酒飲んでいたらさらにやる気がなくなり,どうも今回は粘ってもやる気が出ないだろうと思って帰ることにした.

そそくさと荷物をまとめ,お礼をしたため,香椎から博多.福岡空港.空港でスカイマークの航空券を買って(当日でも\16,000.ありえない),18時発の20便で羽田へ.17時40分になっても機材が到着していないので相当遅れることを覚悟したが,17時45分到着.55分機内案内.05分タキシングととんでもないスピード.チェックリストめくった人々はすごいと思うが,いつかやばいと思う.気流のせいでがたがた揺れる.19時半羽田.20時半地下.

めんにんぐ.帰京報告.ツンデレ,デルコンや草むしり,渓谷,コメ,集団ストーカーなど数々の驚異/脅威を語る.ぶっちゃけ荷物は重いし疲れているのだが,吸い込まれるようにでにーじんぐ.移行.3時帰って斃れる.

だらー

10時,B-samaにより強制起床.ウェブを見て,本を読み,酒.出かけようという気力がどんどん減退.16時頃あまりにお腹がすいたのでごはん.また酒.17時ついに寝る.21時起きる.とりあえず風呂に入ってお出かけ.香椎宮前を通ってJR香椎駅前へ.21時とはいえ,人は少ない.商店街のお店もやっていない.マクド.

地方の夜のマクド・ファミレスといえばDQNの巣窟という印象があったが,意外にも落ち着いた雰囲気.さらに国道沿いに出て歩く.福岡はさすがに大都市なので,駅前が完全にスプロール化しているわけではないが,イオンの巨大なショッピングセンターも道路沿いにあったりして,ある意味駅前が中途半端な具合になっているところが多いのではないか.ロイホ.SSの人と電話.帰りたくなってしまうが,悔しいので明日はどっかいくべき.候補は以下の通り.

起きた時間とやる気次第.

晴れの門出に

B-samaに起こされる.9時.もっと寝たいが布団をはぎ取られたので起きる.こわい.風呂に入って,今度はひとりで西鉄の香椎宮前へ.予報では雨だったが,Tさんパワーにより空は晴れ渡り,絶好の結婚式日和となる.通り道は勅使参道で途中に鳥居がある.「官幣大社香椎宮」の最初二文字が消されている.昨日,高架線に切り替わった宮地岳線(単線2両)で貝塚,地下鉄で中洲川端.人に改札してもらってスタンプを押してもらったのもひさしぶり.テクテク歩いてキャナルシティ.

待合所にいってみると,懐かしい人々がいる.くつろいで式開始を待つ.JS号外発刊.いい感じだった.新婦とは初対面ということで,挨拶だけで済ませようとしたら,すでにいろいろ私の話を聞いているらしく.「イランの人!」といって可笑しそうにしていた.いったい何を吹き込んだのか.

式終了後,B-sama庵に戻り,16時半,着替えて香椎宮.予想通りの構えで,檜皮葺の屋根,鮮やかな朱柱,本殿の「香椎造」が目を引く.福岡中心部から離れていて,それほどのスポットというわけでもないので人もまばら.しかし知っている人には有名なお社なので自己満足しきり.関東への無事の帰還を祈る.

ちょうど列車が通りかかったので,香椎神宮から香椎線で香椎.博多に出る.途中,「はやぶさ」とすれ違う.短くなったものだ.駅地下でらーめん.おいしい.ヴェローチェで今後の思案.地下鉄と西鉄でB-sama庵に戻り,酒.ハードな一日だった.

旅立ちの朝は霧雨

10時起きる.ややまぶたが重い.さくさくっと用意をしてクラナッハへ.結婚式参列という用事もあるので,どうしても荷物が多くなり不愉快.おまけに出てみるとまたも霧雨である.幸先が良くない.

11時50分,東京駅.いつもながらに旅は丸の内北口に始まる.新幹線コンコースへと抜けて17番線へあがるとすでに700系が入線済み.LED表示なのですぐに西編成とわかる.電源の用意されている車端をわざわざ指定してあって,アサインは16号車1番E席.テクテクと一番後ろまでゆく.運転台戸口を見るとB28編成だった.ヱビスを3本買い込んで,囲い棚に落ち着く.定刻12時13分,スムーズな滑り出し.NECスーパータワーを認め,とりあえず旅立ちの乾杯を三田へ.王維曰く「君に勧むさらに尽くせよ一杯の酒.西の方陽関を出ずれば故人なからむ」.

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酒田・新庄への旅

0445起床.ごそごそして家を出る.まだ暗い.千石発0525.土曜日朝,この時間の三田線は立ち席も混じるほどの混雑.なんとなく覚えていたので驚きはない.大手町で降りて御幸通りを東京駅へ向かう.払暁の丸の内は人っ子一人いないがらんとした空間で,東京駅の偉容もまだ穏やかに見える.早朝の東京駅丸の内南口から入り新幹線改札前へ.0608発とき301号で新潟に向かうことにする.新潟から先,庄内方面へは「いなほ1号」を用いる.新潟での乗り換え時間は10分強.「いなほ1号」は「とき」到着より前に入線する.三連休最初の土曜朝下り,JRの自由席削減という条件を考え合わせるといやな予感を抱かざるをえない.そこで「土日切符」で総計4回しか使えない指定券発行の挙にでる.東京駅の窓口で即発行.スタンプが押される.

550ころ,ホームにあがる.お茶を買い求めて入線を待つ.自由席喫煙車の列には10人ほど.自由席での窓際ゲットは余裕の情勢である.ビジネスマ ン風や山行風,私のような旅行者,お年寄りというよくある構成.0558入線.ときの入場私にとってはかれこれ十数年ぶり,懐かしの200系であった(といっても MAXでない「とき」は200系に決まっている).さっそく乗り込み中程の進行方向左側窓際に着席.これは日は東から昇るということ,2-3構成では2の 列を選びたいため.徐々に席が埋まってゆく.0608,東京を定刻に発車.乗車率30%といったところか.滑らかな滑り出し.黄ばんだ蛍光灯と完全に染みついたタバコの臭いが車齢を示す.変貌著しい秋葉原を横目に見るとすぐに地下に潜って上野.

上野定刻.上野にしてはやや多い乗車で70%程度まで席が埋まる.登山客が多い.前列に携帯使用の不届者.東京からずっと甲高い声でしゃべっており,上野乗車のおじさんがキれる.DQNはヘラヘラとデッキへ.上野発車後,おなじみのチャイムが鳴って各駅の到着時刻など詳しいアナウンスが流れる.昨日長野新幹線で盗難があったそうで特にその注意を呼びかけている.アナウンスが流れる中,再び地上に出て高架線に上る.すでに明け切った空は秋の風情.予想以上の好天である.高架上から調和のとれない凸凹とした町並みを眺める.この街は朝が特に美しくない.荒川を渡り戸田の競艇場を左手に見て,武蔵野連絡線を認めると武蔵浦和で外環道を越え,大宮到着前のアナウンス.さいたま新都心のビルをかすめて右にカーブしてすぐに大宮.ここでまた大量の乗車があってほぼ満席になる.隣席は50がらみのおじさん.登山客らしい.ヘルメットを持っていたので一ノ倉沢かと速断するが,荷物がどうも泊まりがけの山行のよう.地図を眺めだしたのを横からのぞくと志賀高原の「山高地図」だったので,どうやら魚野川から志賀に抜けるものではないかと憶測.3連休泊まりがけで岩場もある縦走ならば天候は特に重要だ.他人事ながら以降3日間の好天を祈る.それにしてもずいぶんと山に登っていない.

列車は大宮で速度制限が解除され力走に移る.200系のやや重いモータ音が東北・上越新幹線開業当時を思い起こさせる.心地よい加速のなか,左手遠く秩父の前衛峰を望む.ずいぶんとかすんでいてその山容ははっきりとしない.前線の南下が予想される.やがて,少しずつ田も姿を見せ始める.まだまだ緑が多いがすこしずつ黄色くなってきているようだ.ところどころに曼珠沙華の紅が畦を彩る.もちろん北武蔵は稲作地帯ではないし東京近郊でもあるから,田と畑と新興住宅地の固まりがいりまじったややいびつな風景ではある.これがしばらく続き,山が近くなったと感じて高崎.数人の下車のみ.

高崎を出発するとすぐにトンネルに入る.抜けて月夜野の特徴的な河岸段丘を確認するが,観察する間もなくトンネル.このあとしばらくトンネルが続く.退屈してしまうと早起きのせいか眠気が襲ってきてうとうとしてしまう.トンネル内は気圧が上がるので耳に不快感があるが,これが薄まるとトンネルの出口が近いことが分かる.そこで時折目が覚める.トンネルとトンネルの間に無理矢理設置したような上毛高原を通過してトンネルに入るとまたウトウト.制動がかかってショックに目を覚ます.長い大清水トンネルの末端である.減速してアナウンスが流れると,魚沼川の谷間.湯沢は近い.春先に上越新幹線に乗ると,トンネルを抜けると雪国という往事が再現されるのだが,この時季,さすがに雪はない.あるわけがないが,かわりに空気がやや澄んでいるようには見える.越後湯沢定刻.隣席のおじさんなど山行姿の人々はほとんどここで下車した.登山客ばかり目立つのは北越急行経由富山・金沢方面への乗り換えには時間が早すぎるからだろう.車窓がはっきりと脳裏に浮かぶのはスキーなどでたびたび訪れた越後湯沢まで.ここからさきはあまり乗り慣れない区間となる.

弥彦山を望む

発車して,すぐにまたまたトンネル.線形のためとはいえ,開けた谷があるのにわざわざ谷に沿ってトンネルを掘るという当時の発想に呆れる.トンネルというのは本来峠を越えるのが難しいところに掘って山をぶち抜く.すなわちトンネルと山筋とは直交することになるが,ここでは山筋と並行しているのである.このトンネルを抜けて浦佐.車窓から一見して何もない町である.というより町でさえない.湯沢と長岡の間が長すぎるので駅を設けたという感じで,田が広がっている.このあたりではかなり金色に近くなって穂が垂れていた.下車は数名,乗車が十数人.予想外の多さである.このあたりから新潟圏なのだろう.上りMAXときと離合.見るとあちらは満席.連休で東京を訪れるのだろう.両側の山が去って,広々とした平野が開けて長岡.非常に多くの乗車があって車内は立席も出る.見ると高校生もおり,新幹線が単に東京から新潟へと下るだけの交通機関ではないことを示している.弥彦丘陵のなだらかな山々を遠く左手に見て,信濃川を渡る.平野に出た信濃川は相当広いものと思っていたが思いの外の狭さである.放水路の機能が思い出される.刈り取りの終わった田も見え,その間に蓮田もちらほらと姿を見せ,丘陵にひときわ高い秀麗な山容の弥彦山を認めると燕三条.再び信濃川を渡り関越道が並行して市街地に入るとチャイムが鳴る.新潟0816,定刻の到着である.さすがに終着駅とあって吐き出される乗客の数も半端ではない.

新潟駅乗換改札いなほ1号特急の網ぶくろ

出口は在来線への乗換口と直接駅構外に出る二口があるが,乗換口はせまく非常に混雑している.大半は私と同じく6番線の「いなほ1号」に乗り継ぐ模様.指定席のお客さんだろうか,年配の山行姿の集団.小耳にはさんだ話によると出羽三山へ向かう模様.乗換口を抜けると跨線橋で,すぐに6番線に降りる.「いなほ1号」はすでに入線していたがドアは開いていない.自由席のほうには長蛇の列.指定席をとっておいてよかったと安心したら,急にお腹がすいた.朝からほとんど食べていないのだから当然である.発車まで数分しかないのでスタンドでかけそば.それでも弁当よりはマシだ.私は弁当というものが本当に嫌いで,弁当で腹を満たすくらいならあじさいのほうがいい.ここはあじさいではないので特別にまずいというわけではないけれど,決しておいしいというものでもないが,とりあえずお腹は満たされた.心配なのがここから先眠くなることだ.ドアはすでに開いていたので3号車の指定席に乗り込む.残念ながら山側窓際へのアサインであったが,これが意外に成功だったことが道々わかってくる.車両は由緒正しい上沼垂色の475系.今日はJR東新造のいやらしい車両から遠ざかっておりよろこばしい.

南信高遠の春

今年の春の訪れは早かった。二月中に雪の積もることもなく、三月に入ると東京は二十数度に届く日々が続き、半ば過ぎには、桜もちらほらと咲き始めていた。平年より一週間から半月早く迎えた満開の日々、私は身の回りの瑣事に追われ、東京のあちらこちらの桜を見てまわるといういつもの年の春を過ごすことができないでいた。そして四月になり、ふと見回してみると、すでに葉桜になりかけていたのだ。このような事態は憂慮すべきである、否、許容することができない。盛春を感じる前に、初夏の訪れを迎えてはならないのだ。あまりにも早く駆け抜けていった東京の春を取り戻すべく、桜の名所として夙に名高い南信州高遠を訪れることにした。

信濃は北東から南西に向かって中部日本の内陸部を占める国である。takato_chizu南信は、信州中央の諏訪盆地に向かって南西から走る谷、すなわち多治見から福島を経て岡谷に至る西の木曾谷と、逆に諏訪盆地から南西に向かう谷、すなわち辰野から伊那、飯田を経て、天竜に至る東の伊那谷を中心としたいく筋かの谷からなる。木曾谷は狭く峻険なのに対し、伊那谷は広くなだらかで盆地を形成している。高遠は、その広い伊那盆地の東端に位置する。従って高遠は西のみが伊那盆地に向かって開けており、残りの三方を山に囲まれていることになるが、わずかに北に向かって細い谷が刻まれている。この谷を北へ向かうと杖突峠を越えて上諏訪に至るので、伊那から高遠を経て諏訪に出る裏街道筋―杖突街道として使われた。高遠という城下町はそういう場所にある。

新宿を六時に発して、永福から首都高・中央道を快適に諏訪まで飛ばす。途中での休憩をはさんで、諏訪には九時ころに到着。諏訪盆地の眺望がすばらしい杖突峠を越えて高遠へと降りてゆく。この道筋は古い田舎のたたずまいを残しており、沿線のバス停などもきちんと屋根のついた待合所といった雰囲気のもの。桜や枝垂桜がちらりちらりと見える。ほかにも黄水仙や黄梅、辛夷、木蓮などが風景を賑わせているが、押し付けがましくはなく、よい雰囲気。まさに山里の春。

道の両側の山がすこし離れ、谷が開けてくると、すぐに高遠の町である。鉄道からも幹線国道からも外れた古い街なので落ち着いている。戦国期には高遠氏が治めた。のち武田氏に服属し、織田信忠の甲斐征討軍と仁科盛信との激しい闘いは池波正太郎の『真田太平記』の冒頭を飾る。江戸初には保科氏が治め、保科正之が会津に転ずると、内藤氏がこれに変わった。新宿区と高遠町はいまでも交流を結んでいるという。高遠藩は、こじんまりとした中藩としてそれなりに栄え、信州では北の松代とならんで尚文の藩として名をなしたという。内藤氏の居城高遠城は盆地のほうに突き出した台地上に築かれ、町とはずいぶんと高さが違う。そのひと山がまるごと桜で覆われているのである。これが有名な高遠城址公園で、時代はずいぶん下るが明治六年に植えられたタカトオヒガンザクラが山一つを、桜としてはすこし濃いピンク色に染めているのである。takato_1

さすがに平日といってもかなりの人出で、城址公園からは離れた川原の特設駐車場に車をとめてバスで公園へと向かう。公園に入るとたしかにどちらも桜ばかり。各曲輪に高さの差があり、また空堀もあって、桜がより立体的に見えるのが、名所のゆえんかもしれない。二の丸から本丸へとわたる橋からは、桜ごしに間ノ岳か塩見岳あたりの南アルプスを望むことができ、さらに東に向かっては仙丈ケ岳をのぞむことができた。雪を残したアルプスの眺望と桜の前景というとりあわせも興がある。昼には、ふたたび杖突峠の方向にすこし戻り、こじんまりとしたお寺を見つけて昼食にする。ここではこんな場所でも桜が十数本あり、谷のあちらこちらで桜を見ることができるのである。城址公園の花の城の賑わいと圧倒的な桜の森も良いのだが、そのにぎやかさを逃れて誰もこない静かな境内で、何本かの満開の桜の下、弁当を広げることにしたのである。良く見ると、梅も植えられている。同行した友人が「藤村の『千曲川のスケッチ』の『梅も桜も李も殆んど同時に開く』ってのは本当だね」と言っていたが、まさにその様子である。

昼食を済ませると朝がはやかったせいか、ずいぶんと眠くなってきた。それに山間なので、空気が冷たくことのほか体が冷えた。温泉でも入ってゆっくりしようと、この小さな盆地に別れを告げ、ふたたび杖突峠を越えて諏訪に舞い戻る。諏訪は、上諏訪駅の「駅の温泉」をはじめずいぶん有名な温泉地であるけれど、わたしはあまり良く知らないところ。とりあえず湖岸公園あたりの温泉がありそうな方へ車を走らせると、ずいぶんと立派な洋風建築があった。片倉館の前景「片倉館」と「市立美術館」だという。「そうか、美術館か」と思うと、どうもその「片倉館」というのは公共温泉らしい。ちょっとびっくりした。

立派な温泉の建物といえば道後温泉本館がすぐに思い浮かぶが、ここは昭和九年の建築で、当時の片倉財閥が市民の遊戯場・集会場という位置づけで施設をつくり、あわせて公共温泉をつくったとのことである。中のシステムも道後温泉と同じで、三百円では入浴のみ、六百円払うと二階に上がって、休憩もできるというものだった。休憩もすることにして、ひと風呂浴びる。洗い場はいくつかの部屋にわれていて、湯船も足掛、腰掛、底と三段になっており、腰掛にすわるとちょうど肩まで湯につかるほどで、ずいぶんと深いので、変わった構造である。汗を流して二階にあがり、地ビールの「諏訪浪漫麦酒」と田楽で、だらつく。このとき午後三時。朝早く出るとずいぶんと時間に余裕があるものである。諏訪湖岸を散歩し、間歇泉を見物(ちかくに足湯がある)し、諏訪大社上社本宮に詣でる。あの豪壮な御柱祭の御柱が四方に屹立しており、これをあの勢いで山から落としてきたのかと思い、祭の激しさの印象を強くした。やたらと綺麗になった談合坂SAを経由して午後九時ころ帰着。

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箱根で飲み会

帯広から帰ったばかりというのに、また出掛ける。といっても近場で箱根の強羅である。

当初は1500ころ強羅に集合ということであったが、予定変更に伴って1730湯本集合となった。これ幸いと私は用事を済ませていたので、自宅を出るのが1610頃になってしまった。三田線で大手町まで出て1533発のこだまに乗るべく東京駅までダッシュをかけるが、あえなく敗退。駆け込み乗車はいけないのだが、目の前でドアがしまるのは悲しい。結局30分後の次便に乗る事になった。

こだまはがら空きだろうと思っていたが、東京でほぼ満席。新横浜で立ち席が出るほどで繁盛している。三十分に一本はやはり少ないかもしれない。品川新駅開業後のダイヤ改正で増便が見込まれるかもしれない。

この東京での乗り遅れが仇となって、小田原で四十分待ちが発生。結果的に強羅到着が一時間三十分程度遅れてしまった。強羅からすこし上ったところが、今日の宿。もうひたすら食べて飲んで温泉に入っての繰り返し。よくよく考えたら後輩=先輩の四年生たちとゼミ員の立場で会うのもこれが最後だが、さして実感がわかない。どうせこのゼミのことだから、いくらでもあう機会はあるだろう。

男の後輩どもは、グルジア、アルメニア、トルコに卒業旅行にいってきたとのことで、その話を酒の肴にして楽しむ。モスクワ経由トビリシに入り、陸路エレバン、エルズルム、トレビゾンド、カッパドキア、カエサリヤ、コンヤ、イスタンブルというルートだったそうだ。カフカスはなかなか行ける場所でもないので、貴重な話である。そういえば、後輩の女の子は明後日からシリア、レバノンの方へ行くそうだ。こんな卒業旅行をしているのは珍しいのじゃないだろうか。私も小笠原だったので珍しい部類に入るかもしれないが。

とにかく飲み食い温泉を満喫して翌日小田急で東京に帰ってきた。東京都に入った途端に小田急名物団子運転が始まったので、連続立体・複々線化工事の進捗状況を見ることができた。この工事が完成しない限り団子運転は改称されないだろう。ちなみに、あえて箱根であった意味は、不明である。

糠平の雪

3年ぶりのスキーである。高校の終わりから大学の始めにかけて、年4回から5回くらいはスキーに行っていた。今思うとなんであれほど楽しかったのかという気もする。久しぶりに誘われたし、噂に聞く北海道の雪でのスキーということで、ブランクを気にしつつ赴いたというわけである。

行き先は糠平(ぬかびら)温泉スキー場。帯広の北方、上士幌の奥に位置する。さらに進んで十勝三股から三国峠を越えるとすぐに上川管内層雲峡に出るというから、十勝国の北端、大雪山系の南端にあたる。あのあたりは火山帯にあたるから当然温泉も出る。案内によるとゴンドラ一基、高速リフト二基、ロマンスリフト一基という中規模のスキー場である。大学での同期友人たちとの旅行なので、休日をはさむかたちになっており、混雑が気になる。本州のスキー場ならそこそこ混んでいるだろうと、だいたい想像がつくものの、北海道での状況はさっぱりわからない。

北へ

朝は五時起き。羽田に6時50分集合である。正直眠い。これだけ早ければ、座っていける。三田で一回の乗換で羽田までいけるのは便利である。しかしいざ、三田で浅草線に乗り換えてみると意外に混雑していた。そして羽田空港は大混雑。土曜日の朝はかくも混雑するものかと思う。手荷物検査だけで10分近くは並んだ。こんな状況は初めてである。記憶しておいてよいことだろう。

混雑にうんざりしつつ沖留めのJD131便釧路ゆきに乗り込む。26Fにアサインされた。A300-600Rでは翼の上の中央列である。外も見えないので、何もやることはない。ぺらぺらしゃべっているうちにタキシングも終わり、たぶんR/W 16R/34Lから、あっというまにテイクオフ。さらにしゃべっているうちにランディング。なんの感慨もないフライトであった。

糠平への道

案内された釧路空港の地上外気温は零下5度。空港ターミナルから出てもそれほど寒いとは感じなかった。昨年同時期に旅した時の方がよっぽど寒かった記憶がある。雪も少なめ。もともと釧路は雪が少ないが、だいぶ少なかったのではないか。今年の道東は温暖だが、雪は多めと聞いていたので意外に感じる。

釧路空港から糠平温泉まではバスで向かう。150km超の距離があるので3時間ほどはかかる。空港の台地を南へ向かい、釧白工業団地の東端に近い場所でいちど海沿いに出て、白糠まで海沿いを走る。白糠から白糠国道で内陸に入り、釧路二股(白糠線足寄までの延伸を願って、釧路二股にある駅は、その名を北進と名づけられた)のあたりで道なりに左折、釧勝峠を越えて本別で右折。足寄まで陸別国道を北上し、再び左折して足寄国道で山を越え、ようやく上士幌に入る。上士幌から糠平国道を沢筋に糠平湖まで遡り、湖がきれるとそこが糠平温泉である。ここまで実はくだらないおしゃべりをしていたわけだが、ちらちらと車窓を覗く限りでは雪に埋もれている感じはない。海沿いでは地面が露出している場所もちらちらと見かけた。道路も完全に除雪が行き届いていた。

糠平はずいぶんと山奥であるが、以前には士幌線という路線が帯広から音更、士幌、上士幌、糠平を経て、十勝三股まで通じていた。山を削り、川に橋をかけ、かなりがんばって通した路線であったわけだが、ローカル線の常として大赤字をはじき出し、かなり早い昭和53年には糠平より北、十勝三股までがバス代行輸送化され、昭和62年にあえなく全線廃止となっている。

特筆すべきは、士幌線の遺構がきわめて多く残っているということである。一般に廃線後の鉄道遺構は、国鉄清算事業団に現物譲渡されており、先般の事業団の解散に伴って廃線跡も急速に整地され、次々に姿を消している。その中で士幌線は大規模な鉄道橋梁がきわめて多く残されている。北海道の鉄道橋梁遺構では根北線越川橋梁が非常に有名であるが、士幌線北部も昭和初期に鉄道省の持つコンクリートアーチ橋の技術が惜しみなく注がれた路線として有名で、随所にアーチ橋の優美な姿が残されているのである。バスの車窓からもいくつか視認することができた。糠平湖ダムの貯水量が少なくなると、湖底に沈んでいる士幌旧線の鉄橋も姿を現す(ひがし大雪アーチ橋友の会参照)。これらのアーチを観光資源として生かそうという試みもあるようで、糠平には士幌鉄道博物館がある。

もっとも糠平の街自体は寂れてしまっている。宿数軒にみやげ物屋が数軒。雑貨屋が一軒。ほかに公的機関がいくつかあるだけ。物の現地調達はよほどのことがない限りしないほうが良い。必要な物は上士幌まで出て買うのが吉であろう。

糠平温泉スキー場

到着後、さっそく着替えてスキー場に向かう。

糠平温泉スキー場は、想像以上に空いていた。スキーの人気はひたすら下降曲線をたどっており、内地でもだいぶ空いているようだが、休日をはさんでの旅行であったにもかかわらず、私の記憶では一番空いている。リフト待ちでストレスを感じることはほとんどなかった。好天時にゲレンデより糠平湖をのぞむリフト券が安いのも魅力的。

スキー場の形状は、標高1200m強の最高地点から、尾根をいくつか伝って麓まで続くよな細長い形。斜面を広く使うというよりは、林間コースが多いスキー場である。このようなスキー場ではガーラ湯沢のように混雑すると悲劇的なのだが、ここではそういう気遣いは一切なし。その点はありがたい。細長いスキー場であるが、八方尾根のように頂上から麓まで一気に降りるようなことはできない。全体として上部と下部の二つのゾーンに分けられ、上部ゾーンから下部ゾーンへと降りるときには、平坦な林間コースをスケーティングしてゆかねばならない。これが私をひどい目にあわせることになる。また林間主体なものだから、眺望は全体としてそれほどよいとは言えない。ダイナミックな眺望ならやはりニセコであろうか。細い感じの斜面が多く、あまり眺望はよくないのである。しかし時に木々の間から糠平湖が見えることもあり、眺望は最悪というほどは悪くない。

はじめての北海道の雪。たしかに水気が少ないのだろう。雪が軽い。夜になって滑っても、昼に融けてまた固まった鏡のようなバーンと違って、それなりに滑れる。非常に快適であった。これはやみつきになる。そして、上手下手で分けると上手い人が非常に多い印象。ボーダーもみんなかなりうまい。下手なボーダーというのは、動きが読めなかったり、ゲレンデのど真ん中でめったやたらと座り込むために、邪魔で危ない存在なのだが、それを気にする必要がない。もっとも私がやたらと負い目を感じてしまうのも事実と言えば事実ではある。

なお、案内にあったゴンドラ一基というのは大嘘でそんなものはどこにも見当たらなかった。ゴンドラのあるなしはスキー場の規模を測るのに有用な基準であるが、よく調べる必要がある。

ひさしぶりのスキー

さて、初日の数時間は勘がとりもどせず、極度のへっぴり腰になったりして苦しんだ。往々にして初日というのは、ブランクのリハビリとなるわけだが、今回のものはひどかった。やはり二年は大きいのか。ようやく慣れてきて、ちょっとエッジをかけたり風が吹くとすぐに雪煙があがり、やはり雪が軽いのだということに気づいたのは夕方頃であった。ナイターは非常に人が少なく、幻想的。風で吹き上がった雪が、ライトに照らされてきらきらと光るのは、軽い雪ならではであろう。但しナイターの営業は土曜日のみという点も要注意。それから寒いので顔を覆うようなものも必要かもしれない。ともかくナイター営業中は幻想的でがらがらである。

私自身の問題はやはりきちんとした姿勢をとっていないこと。当然コブ斜面では死ぬ事になるし、ちゃんと練習しようともしなかったのはさらに問題。なんとなくそこそこ滑れるようになってからは、やはり習わないと上達は望めないのかもしれない。

練習と言えばやる気にならないのが、スケーティング。これはもうやたらと下手なので、平地での移動にびっくりするほど時間がかかるのが私の特徴である。ところが友人どもが、ノルディックの真似事が大好きらしく、ゲレンデ間の移動に必ず平地を通ることもあって、平地でのスケーティングレースが数度にわたって開催された。当然のごとく私は、いつもビリなのだが、めちゃくちゃ悔しいので、次に行くときは絶対にちゃんとできるようにするのである。しかし筋肉痛がすごい原因はこれのような気がする。

そんな調子でひたすら滑って、3日目の夜にとかち帯広空港(最近改称して「とかち」が付加されたらしい)から羽田に戻った。とにかくずっと好天に恵まれたのがうれしい。十勝方面のスキー場のメリットであった。羽田への進入ルートはお台場の沖を通るルートで、東京の街の明るさがよくわかった。帰ってきた実感は、やたらと暑かったこと、そしてボーディング・ブリッジをわたった瞬間に鼻がぐずぐずしたことによって感じられたのである。

摩周の朝

ただいま朝6時30分。摩周第三展望台にいる。摩周をみ続けること3日目。昨日の天気図からあたりを得ていたが、ようやく晴れた! おきてみると深い蒼穹。これはいかねば!とおもってとりあえず車を走らせてきたのである。前方には低い雲はなく、高い絹雲が流れているだけである。

非常に美しい。摩周だけの向こうから太陽が昇り、小島のあたりの湖面がきらきらと光っている。東南方標津方面の丘の間には霧が流れている。朝から車を出した甲斐があったというものである。ある程度霧があっても30分くらいいれば、なにも見えないということはまずないが、これほど静かで、これほど眺望がはっきりしているのは珍しい。僥倖である。今日のこれからに期待がかかる。虫の声と風の音。それだけの世界が大展望とともに広がっている。宿に帰って朝食をとろう。

以下加筆中

待ち焦がれた晴天

今日は朝から雨。午後から回復基調にあるので、宿の温泉につかってゆったりとする。昨日はつかれきって風呂にも入らず寝てしまったので、この温泉は今日が はじめてということになる。川湯の特徴の強力な酸性が身に沁みる。においは覚えていたほど強くなかった。硫黄山の印象が強すぎたのであろうか。風呂をすま して、9時半過ぎ。ようやく雨があがったので出発する。

北へ!――ふたたび

ドライヤーによる強制乾燥を経て、荷造りが終わったのが午前8時過ぎである。非常につかれた。これで昼からレンタカーでひさしぶりの運転と考えると少々不安である。

今回の旅行の概要。

  • るるぶじゃぱんに載っていたプレッツのツアーを使用。もともとは札幌往復の航空機+1泊4日+レンタカー4日分で2万円ちょいのプランである。これを釧路着札幌発のオープンジョー形式に変更し、さらにツアーに付属の1泊を川湯で延泊して2泊とすることにした。全体も9日まで延長。また付属のレンタカーも4日を5日に延長。よって、釧路着札幌発2泊9日レンタカー5日分のプランとなる。
  • 行きはJAS135:HND1205-KSJ1340、帰りはJAS122:CTS2140-HND2310を使用。
  • 一泊目:霧多布/霧多布里。二泊目:羅臼/民宿本間。三・四泊目:川湯/北一館。五泊目:帯広/十勝ガーデンズホテル。六泊目:富良野/リゾートインノースカントリー。七泊目:札幌/ホテルメッツサッポロ。
  • レンタカーは1日目釧路空港で借り5日目釧路駅で返却。また6日目富良野で24時間のレンタカーをツアーとは別に手配。
  • 概ね道東を釧路から釧路まで一周して、5日目以降徐々に西へ進み、札幌に入るというプランである。細部はその場の気分と天候次第である。

品川から京急の快速特急で蒲田にいき、そこで各停に乗り換えて空港へ向かうはずだったが、快急で座って爆睡モードに入ってしまったため、川崎まで乗越。いきなり予定より10分の遅れである。といってもツアーの集合時間というのは出発の1時間前という馬鹿みたいに余裕をとった時間なのでまったく問題なし。私が羽田を使う際の平均滞在時間は20分弱であるからあせりはほとんどない。例のテロのせいでセキュリティーチェックが馬鹿みたいにうるさくなって異常に並んではいるものの、それはビッグバードの真ん中のほうの話で、はずれのはずれJASカウンター並びのA-Gateは3分ほどで通過した。

とにかく眠いので機内では爆睡モードに突入する。寝ているとショックがあって、あっという間に着陸。……最近このパターンばかりである気がする。もっとも東京から釧路に飛ぶ際はほとんど海の上なので、ながめるべき景色もないのであるが。

合宿から戻る

ところで、合宿。前日のみまくったので、当然今朝の発表はなし(すでに三年間予定が崩れ続けている。それでも朝に予定を入れるのは愛嬌のようなもんだ)。清里のキープ牧場にいって、あのこゆーいソフトクリームを食べてとっとと東京に帰ってきたわけである。

日本フィルのコンサートに行くつもりが、帰ってみたら猛烈な眠気に襲われて果たせず。ひたすら寝た。

北海道ぷらん

試行錯誤に錯誤を重ねてようやく北海道旅行のプランが固まってきた。今回の当初コンセプトは「これまで行っていないところを見る」であった。例年JRの「北海道フリー切符」を使用して旅してきたので、JRの走っていないところや、盲腸線(行き止まりの路線・たとえば根室本線釧路~根室)は手薄となっていた。そういうわけで今回は、利尻・礼文、サロベツ、根室、厚岸周辺を回ることにしてプランを立てた。東京と北海道の往復には1泊付の新千歳(CTS)発着の往復航空券プラン、稚内と釧路とはしっこが二ヵ所含まれるので道内では「北海道フリー切符」、これに逐次レンタカーを援用という以下のプランを立てた。

  1. 東京~千歳~札幌(深夜に「利尻」で出発)
  2. 午前0時よりフリー切符適用。朝、稚内着。フェリーで礼文へ。午後フェリーで利尻着。同泊
  3. 朝フェリーで稚内~豊富~サロベツ~豊富温泉泊
  4. 豊富~旭川~美瑛~富良野泊
  5. 富良野~新得~釧路~根室~(以下レンタカー)~厚岸泊
  6. 厚岸~標津~羅臼~ウトロ~斜里~川湯泊
  7. 川湯~摩周湖~弟子屈~阿寒湖~釧路湿原~釧路(レンタカーここまで)~帯広泊
  8. 帯広~札幌~小樽~札幌泊
  9. 札幌~千歳~東京

というわけで非常に忙しい。もともと何をどうがんばっても、スケジュール上、9日以上の空きを作れなかったところに第一の敗因があるのだが、これはどうみても強行軍が過ぎる。特に車の部分は下手をすると一日あたりの走行時間が凄まじいものとなる。しかし最終日の札幌泊は既定であるからどうしようもないし、こうでもしないとプランを実現できない。

非常に悩んだのだが、結論として北のはしっこと道東をいっしょくたにすることがいけない、という至極当然な議論が導き出されたので、あらためてプランを立て直してみた。そうして考え直してみるとフリー切符を使うことが前提となっていて、そのためにある程度JRを使わないと元が取れないし、取れてももったいないという発想になっていたことに気づいた。そこでフリー切符を使わないということからrebuildしてみたのである。

  1. 東京~釧路~(レンタカーで)~根室~霧多布泊
  2. 霧多布~標津~羅臼泊
  3. 羅臼~ウトロ~知床~斜里~小清水~川湯(泊)
  4. 川湯~摩周湖~阿寒湖~川湯(泊)
  5. 川湯~鶴居~湿原~釧路(車返却)~湿原~釧路~帯広(泊)
  6. 帯広~新得~富良野(泊)
  7. 富良野~美瑛~富良野~札幌(泊)
  8. 札幌~東京

以上である。まだ若干忙しい気がしないでもないが、一日あたりの車の走行距離は相当に減ったはずであるし、車とフリー切符という二重の負担も避けることができた。とりあえずこれをたたき台としてさらに検討を重ねる必要があろう。最終日が土曜にあたるので金曜小樽泊として秋の臨時列車「SLニセコ号」に乗るとか、あるいは富良野からの帰りに赤平によって炭鉱町を見るなどのオプションも考慮できる。また富良野に2泊という手もあろう。

突然の秋らしさに

昨日は一日シャッターを閉じきったままであった。今日からの合宿に備えて面倒ながらもがりがりと論文書きの資料の下調べをしていたのである。私の部屋は角部屋なのだが、シャッターを閉じきると朝だか夜だか全くわからなくなる。そのような環境でひたすら珈琲を飲みながら、書物を読みあさっていたのである。

16時頃一段落付いたので、シャッターを開けた。驚いたことに、外は冷房をしていた室内より圧倒的に涼しかった。家島彦一さんの論文を読んでいたら、風の音でシャッターが鳴っていたので、雲が流されただろうくらいは想像が付いていた。が、これほどにすっきりと晴れ上がって柔らかい日差しになっているとは驚いた。一昨日が異様なまでの暑さだったことを考えると信じがたい。これほどに爽やかな日であったら、奥多摩のほうにでもハイキングに行っていれば良かったとも思った。涼しい風の中、曼珠沙華の揺れる田舎の風景は平和そのもので、いろいろと考えることもあっただろうに。

夜。わが友のりたまが用事があるとかで東京にきているので、ご飯を一緒に食べた。東京駅は、あまりに東京のど真ん中すぎて夜になると食べ物屋が激減する。八重洲の地下街をふらついてどこかないかと思ったが、ほとんど選択の余地なくあやしげな中華料理屋で普通のラーメンを食べた。あやしげではあったけれど普通のラーメンが妙に懐かしかったのも本当だ。そのあと国際フォーラムを通って日比谷まで散歩し、家に帰った。国際フォーラムの妙な雰囲気は結構楽しい。カップルがいっぱい。旧都庁の跡地ということと関連づけると妙なおかしさがある。帰ったら異様に眠かったので、酒をかっくらって寝た。まだ論文は全然完成していなかった。

というわけで、今日。かったるいまま、起き出したのは昼頃だった。朝起きてからいろいろ書こうと思っていたのだけれど、昼になってしまったのだ。「私の青空」を見て、クラナッハでトーストの朝食。結局、論文はどうにもならなかった。車で行くときの集合時間1000時三鷹もとっくに過ぎている。こうなったら、だらだらと新宿まで行って、特急に乗るのみだ。論文は現地で追い込もう。せいぜいたばこをふかしながらの旅を楽しむしかないだろう。家に帰って、PCからなにから適当につっこんで大荷物を作る。それから曇り空のなか駅まで歩いていった。妙にだるい。

新宿までの記憶がほとんどない。気が付いたら、「あずさ」に乗って、リクライニングを倒して、半分寝ながら景色を楽しんでいた。関東平野を出て、笹子を越えるとまもなく初鹿野(現甲斐大和)だ。初鹿野のスイッチバックのあとを見ているとやがて少々長めのトンネルに入る。ここから先が中央本線の一つの絶景である。トンネルを抜けると甲府盆地に出るのだが、すり鉢の一番上に出るかたちになっていて、盆地が一望できるのだ。しかも今日はトンネルを越えて天候も変わった。晴れである。ちょうど盆地の左縁からまわりこむようにレールは盆地に降りてゆく。左の車窓に夕暮れの日に照らされる盆地が一望できた。ぶどう畑がきらきらと光っていた。このポイントは中央本線に乗る楽しみである。満足した。

もう一つ、中央本線の旅の楽しみがある。甲府を過ぎて小淵沢の手前、長坂のあたりで左に甲斐駒ヶ岳、右に八ヶ岳を望めるポイントである。ここがまた絶景なのだ。しかし今日は、頂上は雲に隠されて見えなかった。少々残念だったが、そんなことを考える間もなく、小淵沢到着。わずかの乗り換え時間で小海線に乗り換えるのだが、その間に急いでとろろ昆布蕎麦を食べる。小淵沢のとろろ昆布はその昔、海に遠い甲斐では昆布が貴重品だったので、とろろと混ぜて昆布扱いしていたことに始まる。そして蕎麦も八ヶ岳山麓のこのあたりの特産だ。この駅のとろろ昆布蕎麦は名残。この駅で、これを食べるのは、ちょっとした私の「きまり」となっている。

さて小海線にのって甲斐小泉へ。レールは八ヶ岳を避けるかのように大きく右にカーブを描いていく。八ヶ岳のすそ野の形が美しい。やがて森に包まれるとすぐに甲斐小泉到着。運転士に乗車券を提示して、下車。駅前には誰一人としていない。宿までのみちをとぼとぼとま暗い中歩いていく。ススキがもう穂を出していた。萩は枯れかけている。陳腐だが、高原の秋は早い。宿の明かりが見えて、合宿に合流。あとはひたすら飲んでいた。

蒸し暑さの中に秋風

昨日まで合宿で河口湖に行って来た。一日だけではあったが、八月で唯一の東京脱出。富士急ハイランドでふじやまにのって遊ぶ。非常に気持ちが良かった。実は絶叫マシーン系が好きらしい。

さすがに標高が高いので、夜になるとずいぶんと涼しい。半袖一枚では寒いくらいだ。まわりに何もない森の中、真っ暗な道を歩いてみる。自分の足音も 息づかいも聞こえてくる。森の音も聞こえる。このような経験は、さすがに東京ではできない。東京の空はとても明るく、また物音のする道は近い。このような 幸せはやはり、田舎に行ってこそであろう。戻るとやはり自動販売機の明かりがあまりにも明るかった。驚く一瞬である。新聞の合宿に行くのもこれが最後であ る。残念なことだ。

後輩の車に乗せてもらって、帰ってきた。相変わらず暑い。一度家に戻る。シャワーを浴びてすっきりする。ちょうどサントリーホールでのコンサートが 入っていていったのだが、どうにもならない眠気に囲まれていて、2時間延々爆睡していた。気持ちよかったので可とするが、もったいないことでもある。この あと今後の研究計画などを書こうと思っていたのだが、まったくもって頭が動かず、また寝た。

今日は院試の願書〆切である。考査料だのなんだのを処理しなければならない。というわけで午後一で郵便為替を作り、写真をとった。写真下手。もっとよくとってくれなきゃこまる。でもTシャツで移ろうとした私も問題かもしれない。

そのあと家に帰って古畑をみつつ「2020年の中国」を読む。18時になってから卒業見込み証明書がないことが発覚。びびって学校に行ってとり、蕎麦を食べて帰宅。再びだらだら。23時。ようやく東京中央局で出願。でも無理だろうなぁ。あと半年英語読もう!