嘘はない

なぜそんなことだけを覚えているのか。いや、そんなことだけを覚えているのではなくて、なんでそんなことじゃないこと、を忘れてしまっているのだろう。いつも、いつも、いつも。どんどんどん忘れてゆく。

寂しかったときに、淋しさをわすれさせてくれるような、うれしかったこと。それがなんだったのか、忘れてしまった……忘れてしまった。覚えていられ なかった。ただ、淡々と過ぎてゆくみんなの足音、私の足音。その足音のはるか背後に忘れ去った落とし物があるのだろう。どんどん踏まれ、破れ、ちりぢりに なり、空気にとけ込んで。

落とし物は想い出。足音は時間。一緒に歩いているとき、足音はきっと聞こえないはず。だから一緒に歩いている私にも聞こえない。でも。ときどき、そ れが聞こえる。無限に続く去ってゆく足音が。だって、どう考えたって聴きたくない。私が忘れられてゆく音なんて。でも。もしかしたら。あぁ、私は思ったん だ。本当は、本当は、立ち止まりたいんじゃないだろうか。時々振り返りたいんじゃないだろうか。そういうふうに。

時々聞こえる足音を聞きたい。なんで時々足音が聞こえるんだろう。それはちょっとだけ立ち止まってみたから。そして。もっともっと立ち止まっていた い、そう思ったから。もっとゆっくりと。これは、速すぎる。そう思ったんだ。そう思ったときの私に、嘘はなかったはずだったんだ。うん。私に、嘘は、な い。

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