南信高遠の春

今年の春の訪れは早かった。二月中に雪の積もることもなく、三月に入ると東京は二十数度に届く日々が続き、半ば過ぎには、桜もちらほらと咲き始めていた。平年より一週間から半月早く迎えた満開の日々、私は身の回りの瑣事に追われ、東京のあちらこちらの桜を見てまわるといういつもの年の春を過ごすことができないでいた。そして四月になり、ふと見回してみると、すでに葉桜になりかけていたのだ。このような事態は憂慮すべきである、否、許容することができない。盛春を感じる前に、初夏の訪れを迎えてはならないのだ。あまりにも早く駆け抜けていった東京の春を取り戻すべく、桜の名所として夙に名高い南信州高遠を訪れることにした。

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信濃は北東から南西に向かって中部日本の内陸部を占める国である。南信は、信州中央の諏訪盆地に向かって南西から走る谷、すなわち多治見から福島を経て岡谷に至る西の木曾谷と、逆に諏訪盆地から南西に向かう谷、すなわち辰野から伊那、飯田を経て、天竜に至る東の伊那谷を中心としたいく筋かの谷からなる。木曾谷は狭く峻険なのに対し、伊那谷は広くなだらかで盆地を形成している。高遠は、その広い伊那盆地の東端に位置する。従って高遠は西のみが伊那盆地に向かって開けており、残りの三方を山に囲まれていることになるが、わずかに北に向かって細い谷が刻まれている。この谷を北へ向かうと杖突峠を越えて上諏訪に至るので、伊那から高遠を経て諏訪に出る裏街道筋―杖突街道として使われた。高遠という城下町はそういう場所にある。

新宿を六時に発して、永福から首都高・中央道を快適に諏訪まで飛ばす。途中での休憩をはさんで、諏訪には九時ころに到着。諏訪盆地の眺望がすばらしい杖突峠を越えて高遠へと降りてゆく。この道筋は古い田舎のたたずまいを残しており、沿線のバス停などもきちんと屋根のついた待合所といった雰囲気のもの。桜や枝垂桜がちらりちらりと見える。ほかにも黄水仙や黄梅、辛夷、木蓮などが風景を賑わせているが、押し付けがましくはなく、よい雰囲気。まさに山里の春。

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道の両側の山がすこし離れ、谷が開けてくると、すぐに高遠の町である。鉄道からも幹線国道からも外れた古い街なので落ち着いている。戦国期には高遠氏が治めた。のち武田氏に服属し、織田信忠の甲斐征討軍と仁科盛信との激しい闘いは池波正太郎の『真田太平記』の冒頭を飾る。江戸初には保科氏が治め、保科正之が会津に転ずると、内藤氏がこれに変わった。新宿区と高遠町はいまでも交流を結んでいるという。高遠藩は、こじんまりとした中藩としてそれなりに栄え、信州では北の松代とならんで尚文の藩として名をなしたという。内藤氏の居城高遠城は盆地のほうに突き出した台地上に築かれ、町とはずいぶんと高さが違う。そのひと山がまるごと桜で覆われているのである。これが有名な高遠城址公園で、時代はずいぶん下るが明治六年に植えられたタカトオヒガンザクラが山一つを、桜としてはすこし濃いピンク色に染めているのである。

さすがに平日といってもかなりの人出で、城址公園からは離れた川原の特設駐車場に車をとめてバスで公園へと向かう。公園に入るとたしかにどちらも桜ばかり。各曲輪に高さの差があり、また空堀もあって、桜がより立体的に見えるのが、名所のゆえんかもしれない。二の丸から本丸へとわたる橋からは、桜ごしに間ノ岳か塩見岳あたりの南アルプスを望むことができ、さらに東に向かっては仙丈ケ岳をのぞむことができた。雪を残したアルプスの眺望と桜の前景というとりあわせも興がある。昼には、ふたたび杖突峠の方向にすこし戻り、こじんまりとしたお寺を見つけて昼食にする。ここではこんな場所でも桜が十数本あり、谷のあちらこちらで桜を見ることができるのである。城址公園の花の城の賑わいと圧倒的な桜の森も良いのだが、そのにぎやかさを逃れて誰もこない静かな境内で、何本かの満開の桜の下、弁当を広げることにしたのである。良く見ると、梅も植えられている。同行した友人が「藤村の『千曲川のスケッチ』の『梅も桜も李も殆んど同時に開く』ってのは本当だね」と言っていたが、まさにその様子である。

片倉館の前景

昼食を済ませると朝がはやかったせいか、ずいぶんと眠くなってきた。それに山間なので、空気が冷たくことのほか体が冷えた。温泉でも入ってゆっくりしようと、この小さな盆地に別れを告げ、ふたたび杖突峠を越えて諏訪に舞い戻る。諏訪は、上諏訪駅の「駅の温泉」をはじめずいぶん有名な温泉地であるけれど、わたしはあまり良く知らないところ。とりあえず湖岸公園あたりの温泉がありそうな方へ車を走らせると、ずいぶんと立派な洋風建築があった。「片倉館」と「市立美術館」だという。「そうか、美術館か」と思うと、どうもその「片倉館」というのは公共温泉らしい。ちょっとびっくりした。

立派な温泉の建物といえば道後温泉本館がすぐに思い浮かぶが、ここは昭和九年の建築で、当時の片倉財閥が市民の遊戯場・集会場という位置づけで施設をつくり、あわせて公共温泉をつくったとのことである。中のシステムも道後温泉と同じで、三百円では入浴のみ、六百円払うと二階に上がって、休憩もできるというものだった。休憩もすることにして、ひと風呂浴びる。洗い場はいくつかの部屋にわれていて、湯船も足掛、腰掛、底と三段になっており、腰掛にすわるとちょうど肩まで湯につかるほどで、ずいぶんと深いので、変わった構造である。汗を流して二階にあがり、地ビールの「諏訪浪漫麦酒」と田楽で、だらつく。このとき午後三時。朝早く出るとずいぶんと時間に余裕があるものである。諏訪湖岸を散歩し、間歇泉を見物(ちかくに足湯がある)し、諏訪大社上社本宮に詣でる。あの豪壮な御柱祭の御柱が四方に屹立しており、これをあの勢いで山から落としてきたのかと思い、祭の激しさの印象を強くした。やたらと綺麗になった談合坂SAを経由して午後九時ころ帰着。

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