東京珈琲史聞書

「クラナッハ」のマスターからの聞き書きである。

東京の自家焙煎珈琲の流れは概ね3つの流れに分かれるということができる。明治世代の伝説の大御所に井上誠氏と襟立博保氏という二人がいる。その共通の弟子が吉祥寺の「もか」のマスター標交紀氏だ。さらに戦後起こった自家焙煎の流れが、銀座「カフェ・ド・ランブル」の関口一郎氏、そして「バッハ」の田口護氏である。意外に世界は狭いらしい。

「ランブル」は銀座八丁目の珈琲しか出さないえらく凝ったカフェとして有名であるし、「バッハ」はいまや日本の頂点に立つ珈琲店であり、九州沖縄サミットの珈琲も「バッハ・ブレンド」であった。まだまだ日本のまともな珈琲はせいぜい第一世代、第二世代、第三世代といった若い世界なのである。

ところで面白い挿話がある。どうも「ランブル」オリジナルの焙煎のはじめは進駐軍の残していった生豆をなんとか焼こうというものだったという。この話、ヨーロッパへの珈琲の伝播が、オスマン朝がウィーン攻囲戦から撤退する際に大量投棄していった生豆に求められるという話と酷似している。四世紀からの時代の開きがあるが、歴史は繰り返すのか。それとも話が話を作ったか。

ちなみに先述の襟立氏の直弟子の女性が三田で珈琲店を半ば隠れて営んでいるという。探してみようか。三田にはまともな店がないから。あ。見つけた

以上のような話は季刊珈琲文化研究会会報「珈琲と文化」のバックナンバーを参照するとより詳しく知ることができる。また自家焙煎コーヒーに関しては立派な調査資料集「自家焙煎珈琲店巡り」がある(ただし評価は鵜呑みにしないこと)。

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