待ちの一手

ある意見の表明には、その意見の根拠を説明する義務が伴う。

ここで問題となるのは、その説明の義務は説明を求められてはじめて応えるべきものなのか、あるいは事前に説明しておくべきか?ということである。この際にリアクションを期待してのアクションであれば、後者をとるべきだ、というのは現実的かつ当然の解釈である。一方で、純粋に学的かつ歴史学的にリアクションを期待している場合、前者であるべきであろう。

もう少し、解きほぐして書こう。つまり、リアクションのうち、自分が表明したある意見の正統性を、相手に検証して欲しいときは、意見の根拠を説明し、反論してもらうことが必要となる。一方で、ある事象に関して、反論ではなく、相手の意見・考え方そのものを知りたいときには、自らの意見の根拠をいちいち説明するのは、相手の考え方そのものを自分の枠におさめてしまう危険性がある、ということを言いたいのである。

これはジャーナリズムの問題と同様である。つまり自らが完全な「第三者」「第三の権力」としてあるべきなのか、どうかである。私は「第三者たるべき」と考えてしまう傾向がある。第三者の目から見た場合、あまりフェアにみえない。フェアに見えないのだが、当事者は歴史たり得るのか、史家たりえるのかという現代史的問題に直面する。

で、最初に戻るが、この現代史的問題に答えが見いだせない限り、とりあえずは意見を表明しておいて、相手の意見を待つという「待ち」の手に出ざるを得ないのだ。もっとも社会史的レベルの日常にこのような論理を適用すること自体が正しいか、という問題を含んでいることも知っておくべきだろうか。

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