金谷武洋『日本語に主語はいらない―百年の誤謬を正す』

日本語に主語はいらない (講談社選書メチエ)

著者/訳者: 金谷 武洋

出版社: 講談社(2002-01-10)

Amazon価格: JPY1,620

単行本(ソフトカバー)(256ページ)

ISBN: 4062582309

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この手の問題について読んだのは大野晋『日本語練習帳』が最初だった。「は」と「が」をめぐる議論は執拗に展開されたにもかかわらず、結局日本語における主語とはなにかということが、いまいち腑に落ちなかった。その点を切り開いてくれるのが本書である。本書は、三上章の『象は鼻が長い』を援用して、日本語に主語はいらない、と喝破する。言語学の博士号をもつ著者らしく、啓蒙書でありながら充分に説得的な議論が展開されており、信頼できる一冊だ。もっとも、斯界ではいわゆる「主語」を主格補語と考えるのは、常識に近いようではあるが。

本書は、日本語文法を説明しにくいという教育現場の疑問から生まれたものである。英文法の理念を日本語に持ち込み、英文法の理念でなんとか日本語文法を理解しようとする現行の日本語文法にきわめて批判的である。日本語を母語とする我々にとって、日本語文法がきわめていい加減にしか説明されていなくてもあまり致命的なことはない。忘れてしまえばよいからである。

しかし、日本語を母語としない人びとに日本語を教えるために、文法が適当に説明できないということは致命的なのである。二人きりの場面で「私はあなたを愛しています」と言うことの不自然さは日本語を母語とするものにとっては自明である。一方で、主語述語を措定した上で基本文法を学ばされた日本語学習者には上記の文章は必ずしも不自然とは思えないだろう。非母語として日本語をまじめに学んだ者が、日本語文法の説明が英文法的であるために、上記のセリフを自然と考えてしまうとしたら、非母語として自然な日本語を話す人は驚くほど少なくなってしまう。上記のようなセリフを基本文として認識させ、「愛してる」を主語目的語の省略とする解釈は、日本語教育の場面からは著しく迷惑なものであった。

さて。先に日本語文法は日本語を母語とするものにとって重要ではない、と書いた。しかし、これには限定がある。日本語を学ぶうえで、という限定である。著者も認識していないようだが、日本語文法教育の欠陥は非母語教育としての日本語教育を難しくしているだけではない。日本語を母語とするものが非母語を学ぶことを限りなく困難にしているのである。他言語を学ぶ際に文法は限りなく有益な武器である。母語の文法への説明を理解し、母語の文法的概念と学習言語の文法的概念の比較を通じて、他言語の習得は容易になる。しかし、我々は日本語の文法概念をほとんど習得しておらず、たとえば日本語で書かれたアラビア語のテキストで「主語」と言われたら、それは英語の「主語」なのである。英語を通してしか、他言語の文法を理解できないのであれば、それはなんと不幸なことか。

おもえば英語学習上でも「文法不要論」があった。これは一義的には些末な文法事項の暗記を強要する英語教育への批判であった。しかし一方で、文法的に説明しにくい日本語を我々はしゃべっているのだから、英語も不要だという意識があったのではないか。日本語の骨格をより簡便に示すはずであった文法は、実際には複雑怪奇なものとして我々の前に現れた。当然、英語の文法もそのようなもので何の役にも立たないのではないか、と。

ここでさらに考えてみると、実は日本語文法で説明が混乱しているのは、文法の基本中の基本にあたるような部分にあったことに気づく。そして、英文法教育が些末な方向に走ったのは、文法の基本中の基本への不信感が表れてしまったのではないかと勘ぐりたくなる。果たして我々は定冠詞と不定冠詞の概念について納得のいく説明を受けただろうか? 果たしてtoやforなどについて、日本語の「てにをは」との比較で納得のいく説明を受けただろうか? このような説明を通じて初めて言語的世界の構造の違いが発見される。そしてその最たるものは実は、主語であり、人称代名詞であったのだ。本書が取り上げる問題は、ひとり日本語教育の場面に関わる問題ではない。他言語教育の問題でもあるのだ。本書を読んで、そのようなことを考えた。

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