康煕字典信仰について

HTML関連の話題を追いかけていくと必ず行き着くサイトがある。「言葉 言葉 言葉」というサイトである。ここでは「国語問題」をとりあつかっている。HTMLの文法をどのように日本語に適用すべきかを考えていれば、日本語の扱い自体を考え始めるのは当然である。「言葉 言葉 言葉」では、おそらくは日本語の問題をWebで公表するに当たって、HTMLの問題にぶつかったのであると思う。

さて。そのサイトでは正字正かなを用いている。少々エキセントリックな形での主張の仕方ではあるが、正字正かなを用いるべきという主張は概ね首肯できる。戦後の国語改革が性急に過ぎたのは明かである。漢字制限については、漢字に関する知識の不足を招き、我々の語彙、ひいては教養を薄いものにしている。その結果「世論」の意味合いの考えようもないから「せろん」「せいろん」「よろん」の起源を誤ってしまう。一方のかなづかいについても、原則の不足が一貫性の欠如を招いている。このようなことを考えると正字正仮名遣いを行うことが無意味であるとは言い切れない。

しかしながら正字正かな論を主張する人びとの中で、一部に問題がある主張をする人がいる。それは書体についてである。はたしてどの書体を用いるか。正字正仮名を主張するサイトをまわってもこの問題への言及は著しく少ない。しかし、その少ない中に、康煕字典体を金科玉条とするようなものがある。原因は、当用漢字、常用漢字への批判に集中するあまり、戦前までの字体が不変であるかのように思いこんでしまったことにあろう(幸いにも「言葉 言葉 言葉」はこの立場に立っていない)。これでは単なる規範論である。たとえば、康煕字典体に盲従するあまり、新旧漢字対照表で「玄」の旧字に、最後の一画を欠いたものを掲げているサイトがあった。この一画を欠いた字が康煕字典体に載っているからといって、正字体と勘違いしたのである。正字でも最後の一画は必要である。康煕字典でそのようになっているのは、康煕帝の諱「玄燁」を避けたからに他ならない。このような誤りを犯してはならない。

さらに書くにあたって、康煕字典体で書くことを勧めるような主張があることには驚かされる。明朝体は、そもそも印刷して、読みやすいことを狙った書体であると言うことを忘れている。明朝は単に旧活字であるに過ぎず、正書体ではない。印刷用にかなりの修正が加えられているのである。正字体を用いるべきという主張は一定の正しさがある。しかし、こと書において印刷字体を用いよとはいかなる言か。康煕字典体は、イコール正字体ではないということを忘れてはならない。漢字の正書法は書に見いだすべきである。楮遂良、顔真卿らの書を見ずに、書体論を行うのは浅薄であろう。そして、印字書体について、あくまで正しさにこだわるならば、明朝ではなく、本来の楷書により近い宋朝体を用いるべきなのである。

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