漢詩,そして音声学

裏三国志の漢詩のいい加減さにあきれ,韻を踏むこと,そして平仄とは何かを知り,平仄を学ぶには音声学を学ぶしかない.なぜそう結論するのか.

漢詩と平仄

裏系三国志にちょっとはまったことはすでに書いた。あまりに単純で恥ずかしいが、三国志にはまったおかげで、漢詩ラヴになった。漢詩は、趣味と言え るほどには知らないが、キャリアだけは長い。NHK第二の「漢詩を読む」を聞きはじめたのが、中学一年の時だから、かれこれ12年になる。もっとも、キャ リアが長いだけの話で、きちんと勉強したわけではない。

ずっと聞き流し、読み流してきたわけだ。ところが、三国志サイトをいくつか回っているうちに、あやしげな漢詩らしきものをいくつか見てしまった。そ の漢詩らしきものというのは、対句とおぼしき連があるため、どう見ても古詩ではなく律詩を目指したと思われるのだが、平仄はめちゃくちゃで、押韻は忘れて いるし、同字重出まである。これはまずい、とおもったのだが、私はにわか漢詩かじりなので面と向かって指摘するほどには知識がない。だから、古詩だと言い 張られればおそらくは勝てない。それが悔しかった。で。要はにわか仕立てで鑑賞のふりなどをしているからいけないのであって、きちんと鑑賞でき、かつ、規 則だけはきちんと守ったへぼ詩くらいは自分で作れなければいけないと思ったのである。

鑑賞の際の第一の問題は、語彙の不足である。さすがに読み下しくらいはできるが、読み下したあげくに?な単語があるのはいただけない。これは前節に も述べたとおり、多く読むことによって鍛えるしかない。逆に言えば、漢詩を読むことでも日本語の語彙の不足を補えることになる。

鑑賞の際の第二の問題は、音声の問題である。漢詩は詩である。一般に詩とは、音の観点を抜きにしては、語り得ない。漢詩を読み下しのみで鑑賞する と、詩の音の妙を半分も楽しめなくなることになる(もっとも読み下しの方法を工夫することで、日本語の詩としての楽しみ方は広がる)。近体詩における音声 の粋は、韻と平仄にある。韻とは次のようなことをいう。五言詩では偶数句の末尾に、七言詩では初句及び偶数くの末尾に、母音に同じ響きを持つ字を用いなけ ればならない。これを押韻という。韻の種類は一般に百六に分かれるが、それを知らずとも、現代日本語の音にも唐音は生きているので、詩を素直に音読みすれ ば、韻が踏まれているかどうかは、ある程度はわかる。例を示す。「唐詩選」に見える韋応物の「酬柳郎中春日帰揚州南郭見別之作」である。「開」「廻」 「來」と韻を踏んでいる。

廣陵三月花正開

花裏逢君酔一廻

南北相過殊不遠

暮潮歸去早潮來

しかし平仄はそうはいかない。平仄というのは大まかに言えば、次のようになる。字の読みには四つの声調、すなわち平声(ヒョウショウ)、上声(ジョウショウ)、去声(キョショウ)、入声(ニッショウ)が ある(現代の普通話の四声と比較すると一声、二声が平声、三声が上声、四声が去声となり、入声は消滅となる)。このうち平声を除いた後三者を仄音という。 そして近体詩では、平音と仄音の出現のさせ方にある決まりがある。例えば、七言絶句の起句では、平平仄仄仄平平(平起式)か、仄仄平平仄仄平(仄起式)な どのように(本当はもっと複雑)なり、リズムを形作っている。これを平仄式という。以上が近体詩における平仄の意味である。韻の場合と異なり、日本語では 四声はその影を留めていない。したがって、平仄は学ばなければ、楽しむことが出来ないのである。

では、どうするかというと、ことは単純で、四声を学ぶしかない。宋代以前の四声はすでにかなり失われているが、日本語よりは現代中国語のほうが、ま だその痕跡をよく留めている。だから中国語の漢字の読みを学ぶ、ということに目標が置かれるのである。ピンインはすでに学んでいるが、ずいぶん前のことな ので、かなり適当になっているものと予想される。発音の総復習をすこしずつやるしかあるまい。

音声学への道

というわけで、発音の復習に突入したわけであるが、個々の音を学ぶうちに、だんだんと効率の悪さを感じるに至った。というのは、人間の発声器官の構 造というのは基本的に共通で、各言語それぞれの発音を経験的に学ぶというのは、どうにもややこしいことなのではないかと思ったためである。そこで、調音音 声学を学ぶことにした。これをやっておけば、各言語での発音記号がどのようなものであれ、その音が理論的にどのように発声できるかはわかるはずであるから である。手始めに、自分の出している音が、どのような音であるかを知るために『日本語音声学入門』を借りてきた。日本語の子音はk,s,t,n,m,y, r,wしかないような錯覚があるが、本当はもっと色々な音が含まれているはずで、日本語以外の言語で現れる音もそこそこ含んでいるに違いないと思ったから である。

たとえば、「我を張る」の「が」と「パンが焼けた」の「が」は音声学的には別の音である。このようにして自分が簡単に発することのできる音をしっか り認識し、そこから、舌の位置や摩擦のさせ方を工夫して拡張することによって、発音の世界が広がるだろうと思ったのである。そういうわけで国際音標字母(IPA)を学びつつある。インターネット上でもたとえばローザンヌ大学の……で、音標文字とその発音を学ぶことができる。

多言語を学ばなければいけない人は、いっそのこと音声学から入ったほうが、発音関連は楽かもしれないと思う。

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