やおい的歴史ねた

以下は、「やおい」だの「june」だの「女性向き」だのという言葉を聞いて「あぁ、あれね」と頷けない人には完全に意味不明ですのでご注意ください。といって、読んだところで実害はないと思いますが。

三国志裏サイト

ここ数日、裏系の三国志サイトを回ってみた(たとえば歴史系裏電網探索などから回ると効率がよい)。驚いたのは、カップリングだの容姿のイメージだのが正史準拠になっているということ。たとえば曹操×荀彧(ジュンイク)だの曹丕×司馬懿などというップリングは荀彧や曹丕の正史における表現を知らないでは、えらくマイナーなカップリングだと思うはずだ。陳羣(チングン)の郭嘉弾劾などは逆に思慕の表れとカップリングネタにされている。とにかく隔世の感を受けた。

世代が違うのだ、と思う。我々は、ちょうど中学生くらいまで吉川英治をはじめとした概ね演技準拠の三国志小説にしか接することが出来なかった。この事態が変わったのは、間違いなくちくま学芸文庫に正史全訳が収められたためであろう。このころから、数多くの演技非準拠の小説群が現れた。そして今、三国志小説の同人界を賑わしているのは、これらの小説群を読んだ人びとであろう。三国志ほど世代間のイメージの断絶が明らかな歴史物語は少ないのではないだろうか。

中には、かなり史料を読み込んでいる節のあるものもある(もしかして院生か?と勘ぐる)。これだけ気合いがあれば、『明実録』など明清期の溢れるような史料に接しても臆するところはないにちがいない。願わくば、そのような小説のあらわれんことを。

二次創作と歴史学

さて、上でなぜ『明実録』などを引っ張り出したか、ということである。それは、歴史学の方法と二次創作にある種の共通性があることを指摘したいためである。

Web上や同人誌におけるこの手の小説の特徴は、なによりもまず、すでに存在するストーリーにおける登場人物やシチュエーションに対して、ある種の思い入れ(というか妄想)を抱き、その思い入れに従って、なんらかの再解釈をほどこし、二次的に創作を行うという点にある。もちろん「やおい小説」であるからといって、すぐれたオリジナルのものがないわけではない、というよりも、すぐれたものはオリジナルであることが多い。しかしながら、「やおい小説」の世界においては、二次創作の広がりは、とても無視できるものではない。むしろWeb上のリソースや同人誌など商業ベースに乗らないリソースの数を数えれば、圧倒的に二次創作の数のほうが多い。これを単に「創作能力の不足」ということは、たやすい。しかし、二次創作であるからこそ、発揮せねばならない能力がある。それが「再解釈」である。

やおい的二次創作においては、抱いた妄想を説得的に構成するために、既存のストーリー中に散りばめられたエピソードをかき集め、ある程度の再解釈をせねばならない。その再解釈のために、作者たちはおどろくほど丹念に元となるストーリーのテキストを読み込んでいる。特にやおい的二次創作は、もともとやおい的要素のないストーリー中で、やおい的カップリングを構成しなければいけないという、獣道開拓ともいうべき性格をもっている。とすると、二次創作の中でも、やおい的二次創作は、ストーリーを変更するというより、いかに無理なく既存のストーリーにやおい的要素を持ち込むかという問題になる。その結果、構成上の創作の余地は極小化され、むしろ最大限の解釈を行うことに集中しなければならないのだ。かくも妄想とは偉大なものか、と思うわけだが、実はこれは妄想に基づいてテクストを再解釈するか、仮説に基づいてテクストを再解釈するかの違いで、歴史学の方法とやっていることは同じなのである。もちろんこれは帰納的な方法であって、演繹的にはエピソードを読み込めば読み込むほど、妄想がふくれあがるという可能性もある。とにかく、二次創作における一次著作物は、それが漫画であろうとアニメであろうとゲームであろうと、二次創作作家にとって、歴史家の史料と性格を異にするものではない。

そして妄想にある一定の確実性が見込めた時には、人物のイメージができあがる。このとき、さらに再解釈を重ねると、テクスト内での各記述の不整合なども目につき始めるらしい。これについて何らかの批判を加えれば、それはすでに史料批判である。

史料の形式

さて。繰り返しになるが、やおい的二次創作の本質は、あるキャラクターとあるキャラクターをくっつける、そしてくっつけるためにテクストから状況証拠を探す、という二点にある。当然、なんらかの抽象的テーマのケーススタディよりも人物の具体的動きの描写が中心となる。ということは、紀伝体という叙述形式が実にやおい的妄想をふくらませるのに適しているのではないか、との疑問に行き着く。

人間中心に書いているのだから、当然といえば当然である。紀伝体の史書から、理念型的図式を引っ張り出すのは大変困難であるが、カップリングの妄想を働かせるのは容易なのではないか。そしてその妄想が体系的に世界を形成し出すとき、それは一つの解釈となる。三国志裏サイトでは、多くのサイトで、小説とは別に人物評やカップリング論を展開している。場合によっては史料を逐一挙げて論を展開しているところもある。これはもう一つの歴史叙述だ。

その意味から言えば、一般的な概説書は世界のイメージを描くことに主眼があり、人物のイメージを描くという要素は少ない。逆に史料、特に紀伝体のものや、人物伝集(たとえばアラビア語史書のタバカートと呼ばれる分野など)は、世界像を構築するために読むわけだが、とにかく微細な記述が多く、はっきり言っていらいらしてくることもしばしばだ。妄想はこのようなものを本格的に興味深く読む情熱を与えてくれるに違いない。うらやましい限りである。そういう意味では三国志に限ることなく、史料はまさにカップリング的妄想の宝庫なのである。史料を読み込むということ自体は同じ行為である。妄想は、それが妄想であると自覚できる限り、歴史学におおいに資するに違いない。

史料はいまだ無限大

三国志関連の資料は、文献資料に関する限り、新たな発掘でもなければ研究され尽くしているだろう。しかしながら世の中には、まだまだ研究の先鞭がつけられたばかりというような分野も山ほど存在する。北京の档案館には整理だけでも100年はかかると言われる史料群が眠っているし、先に挙げたマムルーク朝期のタバカートの類(たとえばもっとも有名なイブン・ハジャル・アル=アスカラーニーの『隠れた真珠』は1372年から1449年までの1万数千人の伝記が収められているが、本格的な研究は出ていない:長谷部史彦助教授教示)もそうだ。どんどん人物を検証して、くっつけていく余地はある。原典にあたれば、無限の創作の可能性が溢れているのである。

問題点

もっとも問題点もある。妄想を妄想として自分で満足できれば、それは問題がない。しかし、妄想を人に読ませたいとなると、世界観を共有していないマイナーな人物をひたすら出されても、読者はさっぱりわからない。そこをどう開拓するか、それが獣道に課された問題なのである。

ついでに

ところで、回ったサイトの中で一番気に入ったのはDarkSideoftheStar(http://members.jcom.home.ne.jp/darksideofthestar/)にある「逆しまの庭」という小説。これは全然やおいモード入っていないのですが、禅譲による王朝滅亡の雰囲気がよく書けている気がします。「滅亡」のイメージがコンスタンティノープル陥落である私にとっては、ここに書かれている静けさと空気こそが、「時代の終わり」とかそういったものを伴わない、本当の単なる「王朝の滅亡」のように思えました。

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