一揆、ドイツ農民戦争、共同体、そして

ドイツ農民戦争と宗教改革を境としてドイツでは、中世的永遠の中にあった共同体と、均質な支配を目指す領邦権力との確執を基調とした社会構造の変革が始まる。

日本では応仁文明の乱が社会構造の折り返し点であるということがよくいわれる(たしかもとは内藤湖南か)が、同時に中世的特長としての封建制がドイツと近似しているという説も時に行われる。しかしながら共同体的特質を見る場合、その結びつきの強さが類似するとしたらむしろそれは日本の場合は近世村である。

たしかに社会-権力関係では、領邦国家の均質支配への道と、戦国大名による一円支配の確立は、きわめて類似しているといえよう。ただし共同体の最たる惣村と領主の関係はドイツ農民戦争の構図でみることはできない。むしろ日本の場合、この時期をもって、領主層、百姓層それぞれに「一揆」という形で共同体観念が成立し、それが近世につながると考えるのが自然である。

一円支配の確立という社会-権力関係の変化は同様でありながら、同時に進行した社会構造の変化は、ドイツの場合は共同体の崩壊に、日本の場合は共同体の確立へと向かったのである。そして「一揆」という言葉はやがて農民叛乱をさす言葉として変質するという事態に、共同体の担い手としての「百姓」ならぬ「農民」の成立をみることができよう。

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