雲間の光

昼、起きる。「北の国から」の再放送をみたあと、17時に家を出る。ひさしぶりに千石ラーメンを食べ、珈琲館で「ベルリンの秋」を読む。上巻を読み終わり、19時近く。まだ明るい。黒い雲が出ていて暗く鬱屈した感じの空なのだが、その間からわずかに光が見える。暗示的な空だ。

一度家に戻ってビッグカメラに行く。修理完了の確認と払い込み。オーディオ一式は配送してもらうことに。土曜日にはつく。すばらしい。CDが聞ける……。

人がうじゃうじゃいて気色が悪い。しかも池袋。ちょっと雰囲気というか洗練が……だ。旭屋でちょいと本を購い、帰宅。寝る。

しかし意外なところにも歴史好きとはいるもので、なかなかに驚かされる。ハプスブルクのお家が好きとのこと。最近の私は歴史と言ってももろに近現代につっぱしってしまっている。しかし近現代の歴史は、世界大で非常に入り組み、一国史の枠に収めきることのできるものではない。当然これまでに学んできたヨーロッパ、地中海、中東、中央アジア、中国の古代史中世史は非常に役に立っている。

東欧の現代史において、共産党支配のもとで人々が抱き続けた「文化的なるもの」は、たとえば神聖ローマ帝国の帝国首都としてのアイデンティティを持ち続けたプラハ、マジャールの土俗が息づいたハンガリアなどさまざまに見いだすことができる。そしてそれを良い意味でも悪い意味でも、底流とさせ続けてきたのがハプスブルクである。近代においては今見直されつつある「アウスグライヒ」の実験を行った。そしてまた。近世ハプスブルクがハプスブルクとしての帝国を形作らねばならなかった理由はオスマン朝と、クリスチャンであるにも拘わらずオスマン朝の同盟国であったヴァロワ朝フランスにある。これに対抗するため、自然とスペインと中欧の帝国化が進んだのである。ここにヨーロッパ世界と地中海世界の連関性と帝国の伝統……すなわちローマ帝国の伝統がオスマン朝にしろヨーロッパにしろ受け継がれていたのだ。東ローマ帝国の文化的伝統はオスマン朝に影響を与え、一方で神聖ローマ皇帝としてのハプスブルクを導いた。ここに歴史の渦がおそろしいほどの勢いで渦巻いているといえる。

……なんの話をしていたのか(笑)

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