情の薄さ

久方ぶりに私のことを「冷たい」という人がいた。的を射た議論である。ふつう私は優しさを装っているのだけれど、これは誰にでもその場限りひたすら優しい「優しさ」なのであって、人間関係の深いところを考慮したような……たとえば優しくしない「優しさ」……優しさは持ち合わせてはいない。ありがたいことにわりかし誰でもあえてつっこむようなことをしないでくれている。

悪いところはずばずばと指摘してこそ、おそらくは理想的な「市民社会」の言葉ある「優しさ」なのであるはずだが。日常レヴェルのきわめて簡単な優しさは、実際には優しくされるための無言の強要である、という議論があるが、そこから言えば私はこの悪い例に限りなく近い。まったくもって後悔の余地がありまくるのだが、私の信条は後悔しないことであるから、いかんともしがたい。

結局のところ、私は他人に非常に厳しい。厳しいといってもそれをどうにかしようとしての厳しさではなく、あきらめ、切り捨てた厳しさである。たとえば。友人と約束をしていて遅刻したとする。その遅刻がもとで信頼を失うようであれば、所詮その程度の関係と割り切る。相手にとっては遅刻してもいい程度の相手と思われているのが不快のなのであろうが、逆である。ハッキリ言って、そんな信頼関係は大嫌いだ。

経済学の言葉に、Cool Brain and Warm Heartという言葉がある。実行できればなんと素晴らしいことか!!

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