授業を変えれば大学は変わる。だから?

『授業を変えれば大学が変わる』という書物が出版された。「授業評価」の導入を通じて、大衆化した大学の授業のあり方を変えようとするものである。私はこの書物関連のプロジェクトに若干携わった。大学改革には様々な視座があるが、あえて授業評価を錦の御旗に持ってきた、という意図は理解できる。しかしながら「山を動かす」的な世論の操作をして、大学を変革しようという議論は、私には受け入れられるものではなかった。

どういうことかというと、授業評価システムを導入するだけで、大学は変わり世の中が変わる、というような単純な議論に問題を感じたのである。大学とは、そもそもこのような単純な論をする単純な意識、これを排除しする論理性を育むことが意図された場ではなかろうか。大学はさまざまな論の多様性と知の妥当性を求めている場所ではないのだろうか?

たとえば、大学が大衆化したということが前提とされている。しかし、大学卒という論理志向を持つ人々が社会にそれほど求められるのか? 現況では学というものを普通の人々はまったく無縁のものと考えている。つまり、学問の大衆化はまったく進展してない。その意味では、学問の社会への浸透をどのように図るか、という視点も必要となろう。学問の性質を完全に無視し、「大学の大衆化」という現状にあわせて大学をかえればよいという議論は粗雑に過ぎる。

そして、これから時間が過ぎれば過ぎるほど、「大衆」というものの存在自体も怪しくなるのではないか。そうなれば、大学は知の拠点として知的エリートを生み出す場に逆戻りするだろう。もっとも「知的エリート」が即「エリート」そのものと結びつけられるような戦前の状況とは異なるだろう。社会は「多様なエリート」を多様に存在させる時代へとうつりつつあるのだ。これからも大学が大衆化するとは思えない。

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