西洋近代批判は西洋近代を楽しめぬ者にとっては単なる無知である

昨日の夜、酔っていたためかブラームスのピアノコンチェルトを聴いて涙してしまった。

私は史家を志し、そしてまた「近代」の概念に呪縛されて歴史をみる西欧中心主義に対しては大変に批判的なものである。しかし、私たちが生きるのはその西洋近代の恩恵を多大に受けた現代社会であることは事実である。ここで歴史観の「近代性」を批判することは大変に容易なことであるが、批判にはその代案を示す、という重要な責務が待ち受けている。

単に批判するだけでは、「無知」である。外国語や仲間内を席巻するポピュラー音楽へ親しめなかった落伍者がその負け惜しみに批判する。実に意味のない構図ではないか。

では、どのようにあるべきなのか。私はこう思う。すなわち、西洋近代を充分に楽しみ、そのメリットもデメリットも知らねばならぬ。政治制度や経済制度をみるだけ、あるいは文字に浮かび出る文学や哲学をしるのみでは不十分である。音楽を楽しみ(もちろんクラシックもポップスもなにもかも)、絵画を深く見つめ、話し合うことが大切だと思う。

すくなくとも批判者にはその対象への興味が必要だと思う。現代の構図の上で興味もなく、「意味がない」「理念が間違っている」と批判するのは単なる原理主義か、あるいは単なる負け惜しみなのだ。

社会史文献を読むだけで、社会を知ろうとしない者は、本当は興味がないか、自分を殻で武装しようとしているにすぎぬ。季節と同様時代や理念もかわる。往く秋をおしむ。この感覚が史家にも求められると思う。中世の秋、そして今近代の秋を暗黒の時代として一蹴し、ひたすら「悪」の名に染めるのはどうか、と思う。

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