志木孜


私たちの学校、すなわち慶應義塾志木高等学校(以下本校と呼ぶ)の所在は埼玉県志木市である。私たちの多くが通学に利用する交通機関である東武東上線の志木駅は同県新座市にあり、そしてその二市の南隣に和光、朝霞の両市がある。

旧新座郡の町々「志木」「新座」「和光」「朝霞」。荒川の沖積低地と、武蔵野台地の末端を新河岸川、柳瀬川、黒目川が刻んだ谷々。これらの町の名はどうしてつけられたのだろう。

ひとは、その人やその人の属する共同体にとって、何らかの価値や意味を持つ「もの」「場所」「ひと」に名をつける。だが、その一方で言葉は「ある」ものに対し、一対一対応で、かつ不変のものとして、名前が付いているわけではない。文化や環境が違えばいろいろと変化する、恣意性のもとの存在である(1)。四つの市の名にも、音に発するイメージがあり、字から読みとる意味があり、その背後を探ることができるはずである。それらのことを志木を中心にして考えてみたい。

なぜ本校が「志木」という名を持つ空間にあるのか。「志木」という名を持つ空間の現状を考え、その空間はどうのような意味を持つものであり、その空間は私たちにどのように作用するのか。糸をたぐってみたい。

  1. ソシュール『一般言語学講義』岩波書店 1972による。本書を引用した以上構造主義言語学や、構造主義自体に関しても論ずるべきであるが、それは手に余る。従ってここでは構造主義諸学の成果をとりいれるにとどめ、構造主義や、ポスト構造主義論に手を伸ばすのは控える。

目次

志木という市名

昭和四十五年埼玉県北足立郡足立町は、市制施行して埼玉県志木市となった。「今回市制施行をなすにあたり……中略……歴史的にも由緒ある志木市にしようとの意見で全員一致読み方も志木市とすることになった」(志木市所蔵文書)という(1)。では、その歴史的に由緒ある「志木」とはどのような名なのだろうか。

「志木」という名が関連する近代自治体の変遷は次の通りである。明治七年に二村が合併し、はじめて「志木」の名をもつ「志木宿」が成立する。その後、新座郡志木町、北足立郡志木町、戦時町村合併促進法による北足立郡志紀町(2)を経て北足立郡足立町(3)、現在の志木市となっている。この近代の自治体変遷史だけからは「志木」の名の持つ深い意味は読みとれない。なぜならば、「志木」の名はそれより遥か古くまでさかのぼることができるからである。志木宿は何をもって「志木」の名をとったのか。明治八年の『武蔵国郡村誌』によれば、その名は『和名抄』にみえる平安期の「新座郡志木郷」にちなむとされる(4)

ここに、志木の古名がいくつか挙げられているのだが、それによると和名抄にはいくつかの異本があって、「志木」「志未」「志末」とそれぞれ記載がわかれ、また訓を欠くが「志木」であればシキの読みでよいように思われる(5)との記載がある。木、未、末はすべて楽を草体書した結果誤読され、このように読まれたもので、もとは志楽であったらしく(6)、また志楽木、志羅木が中略された結果ともいう(7)。しかしどちらにしろ「シラギ」という音が現れてくる。「シラギ」は、古代朝鮮の「新羅」の訓ではなかろうか(8)。なぜここに朝鮮半島の国であった新羅が登場するのだろうか。

  1. 『志木市史』現代資料編,志木市,1986,P.80
  2. 現在の志木、朝霞、新座、富士見、和光が合併した形である。この「紀」という字は合併がちょうど二月十一日の紀元節に行われたことによる。
  3. 隣に新しく旧郡名から町名をとった新座町が成立したため、それに刺激されての成立。名は旧郡名をとった新座より優位にたつため現郡名の足立(より広範囲)をとったのである。
  4. 『志木市史』近代資料編,志木市,1988,P.11。この際は、引又、舘の二村が合併したものなのだが、新しい名前ではかなりもめたらしく、県庁が『国史』によってつけたとされる。それでも舘村側からは志木は引又のヒキの音がなまったものだと反対する声さえあったという。
  5. 埼玉県の地名』日本歴史地名大系11,平凡社,1993,P.86
  6. 「日本地理志料」「大日本地名辞書」
  7. 『角川日本地名大事典 11埼玉』角川書店,1977
  8. 『古代地名辞典』東京堂,1981,P.158にシラは「汁」の転で「湿地」を示し、ギは場所を示す接尾語とする見解が記載されているが、ギについては全く確証がなく、また湿地とした場合に台地上に展開するシラギという地名について説明ができなくなる。また大和に散在する磯城などの地名と関連するという声もある(金達寿『日本の中の朝鮮文化』講談社,1970)が、こちらも想像の域にとどまっている。

新羅と新座

それは、志木郷の属していた郡「新座」は、古くは新羅郡であったことと同様ではないかと思う。新座郡は奈良朝に新羅郡として設置された郡である。『続日本紀』天平宝字二年八月二十四日条に

「帰化新羅僧卅二人、尼二人、男十九人、女廿一人、移武蔵国閑地、於是、始置新羅郡焉」

とある。

新羅の名は、このことに基づくものだろう。

具体的には、周囲が彼らを見てその名を付けたのか、あるいは故郷を懐かしみ、自らその名を土地につけたのではないだろうか。また先に述べたとおり近代でも、郡名などより大きい単位の名を、その中心としての象徴のもとに、自らの町につけている。同様に、古代においても「志木」が成立した可能性も否定できない。

さて新羅人たちの入植の背景には、日本と新羅が緊張関係にあったこと、当時の藤原仲麻呂政権の地方政治への意欲があった。当時、武蔵守には近隣の高麗郡(1)出身で仲麻呂の腹心の一人、高麗福信(2)が就任していた。監視をかねつつ、新羅人の技術力を集中的に武蔵国に送り込みんだという意図ではなかろうか。『続日本紀』宝亀十一年五月十一日条と『文徳実録』嘉祥三年十一月六日条に新羅郡人沙良真熊という新羅琴の名手に関する記事が見える。「琴」という楽器、その音に象徴される新羅の風土(3)も持ち込まれたのである。

  1. 高麗郡はいうまでもなく霊亀年間に高句麗人を中心として入植した土地である。この時は前後に百済人等も入植しているが、これは唐朝の朝鮮計略のため、我が国へのがれてきた人々である。新羅人は新羅郡の設置以前にも持統朝頃から武蔵に配されていたようである(『日本書紀』)
  2. 本姓「背奈」。三度武蔵守に就任、非参議従三位まで昇り、のち高倉朝臣と改称している(『角川日本地名大事典 11埼玉』)。
  3. 和光市新倉の御房山は新羅王の居跡と伝わる。(『志木市史』)

「志木」とその空間

現代日本語の言葉は音と字によってなりたつ。音と字が同一の根をもつものならば問題はない。ところが名詞などでは、その言葉の字と音の双方が持つ背景の風土が異なることがある。そういうときその言葉の世界は多重の世界となる。

たとえば、北海道の地名は、アイヌの伝統的な地名を漢字によって表記している。字で、「富良野」「根室」「網走」「厚岸」と書いてあるイメージと、音に出して読んでみるのではだいぶ違うだろう。今でもなおアイヌの地名の音感がわかる。その音感の根底にはアイヌの文化空間がひろがる。北海道には二重の空間が存在し、北海道にすむ人々は二重の空間を同時に生きている。

文化空間は歴史がつねに流動するのと同様に、不定形の変容を繰り返す。であるから、上述してきたようなことは、どのような場所でも起こっているともいえる。

しかし「志木」は新羅に由来するのである。新羅という海を渡った朝鮮半島の国の名である。このことだけでも、おおいに興味をそそる。考えてみる価値はあるかと思う。

シキの音は、「新羅」という漢文化の流れを引く字を捨て、シラギという音で浮遊し、「志木」という日本の下での字に定着した。平安期に、郡のレベルでも「新羅」が「新座」と日本語化し、外来文化はすぐには読みとれない文字の裏側へと埋没したのだ。

「志木」にしろ、北海道の地名にしろ現実の空間においては、現代日本の一部であり、その世界は字を持つ。しかしその裏側には、もう一つ別の世界、声の世界が潜んでいるのかと思う。「声の世界」は、文字の前には非常に弱々しく、なかなか聞き取れない声でささやいてくるだろう(1)。その声を聞いたことによる共通認識、そしてその結果生まれる内部で結合した心の世界、それが「声の世界」である。

声はいろいろな読み方が許される字と違って、個人が関わる余地がなく、まっすぐに思念として伝わる、非常に強い力である。反面、声は存在として残らない一過性のものである。

文字は書き写すことができる、つまり増殖が可能なのだが、声ではそれが不可能なのだ。その意味ではとても弱い。音は非常に曖昧な位置づけにある。各自の恣意的な精神に基づいた、、主観的な、いいかえてしまえば、自分勝手なイメージだけが交換されるような曖昧な世界である。イメージは、白昼夢かもしれないし、狂信かもしれないし、現実認識であるかもしれない。あまりにぼやけたものであるから不安定な世界で、強い共感(たとえば、民族意識)による支えが必要である。

「志木」では、その世界(とりあえず「声の世界」と呼ぼうか)を支えたのは新羅人たちだった。『続日本紀』にもあるように彼らは閑地に移された。つまり、以前祭祀の行われたことはなく土地神を持たない空間に入植したのだ。当然新羅人たちは新羅人たちの持つ世界をこの空間に移入し、新羅の祭祀を行った。現在校内に残る野火止用水址の「野火」は実に古代の朝鮮人の祭祀としての焼き畑にさかのぼることができる。ところが、新座郡の新羅人たちは平安期に入って、突如として姿を消す(2)。高麗郡が代々高麗神社を守ってきたのと対照的である。延喜式には新座郡の式内社はみられない。日本古来の世界はもともとなく、そして新羅人の持ち込んだ世界も、その支えを失ってしまったのである。

支えを失った「志木」の世界はどうなるのだろうか。「志木」の名をもつ以上、その世界は残存する。ただし、それは非常に空虚な世界としてである。中世以降「志木」の名の付く空間は、古くからの日本の土地神はなく、また新羅人によってようやく開かれた世界も非常に希薄な空間として存在したのである。

  1. 特に日本ではそれは弱い。詩的言語を声に出して読むという行為が日本語において少ないからである。和漢朗詠集では声を出すことじたい目的なのに、今ではすっかり遠ざかってしまっている。なお、音のもつ霊媒的な作用については前述『言語学講義』を参照されたい。
  2. どういうわけかそのあとには永正年間に高麗郡出身の人々が入っている。現在の朝霞市膝折の「高麗」や、同市岡の「比留間」はその流れの人々である。現在本校に在籍する「比留間」氏や、「高麗」氏も住所から考えて、その流れを汲んでいるのではなかろうか。

「志木」周辺の空間

では「志木」周辺ではどのような空間がもたれているのだろうか。

志木周辺の三市の土地に対する名としての地名はいずれも新しい。

新座の名それ自体は古い。先に述べた新羅郡が、『延喜式』(九二七年)では新座郡とされている。『和名抄』には「尓比久良」とあり「ニイクラ」と読んだようである。こののち江戸後期にいたって「ニイザ」と読むようになる(1)が、公的な読みは昭和三十年の北足立郡新座町の成立まで「ニイクラ」である。現在の新座市域は、「片山」と「大和田」の二つの集落からなっており、新座の名で呼ばれることはなかった。

「ニイクラ」とよむ集落は別に存在した。それが現在の和光市大字新倉である。中世戦国期から見え、昭和十八年に至るまで新倉村として存続。戦時町村合併促進法で、志木郷に比定される白子村と合併し、北足立郡大和町、市制施行して和光市となった。現在の東武東上線和光市駅は、はじめ新座駅といい、やがて大和町駅、ついで現在の和光市駅と改称したのである。つまり、今の新座と昔の新座は別の場所であって、名に対して、土地の歴史は釣り合わないのである。

昔の新座の方は、大和という町になり、やがて和光という「平和・栄光・前進の象徴」する名を付けたのである。

そして朝霞は、非常におもしろいことに、昭和四年に現在の朝霞市域に移設された東京ゴルフクラブの名誉会長であった朝香宮に因んで付けられたものである。

これら三市に共通することは、好んで古い地名を捨てて、近代性を象徴するような名前を、あるいは音の象徴性を無視し、字の持つイメージのみを吸収していることである。「志木」周辺は、近代にいたって声の世界がどんどん希薄になっていっているのである。声の世界が弱ければ弱いほど、外来の文化は入り込みやすいのである。しかし一方で声の世界のもつ深さがないため、その場に根付くには非常に困難なことなのである。この地域の江戸期の新河岸川の交易中心地としての繁栄も、現在、顕著なマンション・ブームも、声の世界の弱さに根ざすものと考えられるのである。

  1. 『志木市史』近代資料編,志木市,1988 P.11

「声」の空間と本校

先ほどから繰り返すように声の世界は、人々の精神的風土、呪的なイメージ、さらに換言すると人々の心の宇宙のつながった部分にひろがる。人々の心の宇宙は、個々に分断されたものではなく、共有、あるいは何らかの形で結合されたものでなくては、声の世界は存在し得ないのである。このような宇宙観は、西欧近代の「個」の確立(1)と、そこから来る西欧文化に根底の流れとはまっこうから対立するものである。

日本も明治以来、西欧文化を移入して、個を確立してゆく。その推進の力の一つが福澤諭吉にあったことは否めないであろう。その福澤の創立によるところの慶應義塾の理念に「独立自尊」がある。これこそ「個」の確立を端的に表している。そのような教育を施すときに、声の世界が存在する場所は、ふさわしくないのである。

思春期と重なる、「少年」の時期は、男の子が子供から大人へとかわる通過儀礼の時期である。その儀式は苦しい試練かもしれないし、あるいは真実を求める旅であるかもしれない。しかしその通過の旅程は、限りなく中間的な世界である。私たちにもそのような時期を通過する人があるかもしれない。そのような人は「つまらないただの」大人にはならない。のようなとき声の空間が必要なのではないか。

今までゆるぎないように思われた、デカルトの考えていたような極性の自然への目は、暇な哲学者の狂った視線にすぎなかった。中世的停滞が私たちを待っている。それに対処するためには声の世界を通過した中間的な人間が必要とされる。そんな状況の中、学校の空間に、多次元性がなかなか意識されないことは残念なことである。

今の流れは、声の中間的な世界をどんどん狭める方向にある。声の世界は意識を開くことによって、自分の心に作り出される。声の世界には人間の精神の介在する生物たち―たとえば妖精―さえも住むことができるであろう。しかし、人は人間の世界にしか興味を示さない。たまに、神秘的な方向に向いてもそれは大げさで不自然な形でしかあらわれない。

声の世界を保存することが大切であろうと思う。自分の心の中に、その意識を持つこと。あるいは、その世界を何らかの方法で描き出すことによって、人の心に「声」の世界が存立するようになるかもしれない。我々は「個」をおいもとめるだけでなく、中間的な世界を大切にしなければならない。志木の森にも、妖精の森の入り口はあるかもしれない。鍵はどこに隠されているのだろうか。

  1. 阿部謹也氏によれば、西欧の「個」の確立の要因の一つは、キリスト教の「告解」の儀式にあるという。

脚注

参考文献

  • 柳田國男『地名の研究』、定本柳田国男集第二十卷、筑摩書房、1962
  • 松崎欣一『志木地域の歴史と現況』、慶應義塾志木高等学校研究紀要第四輯、1974
  • 松崎欣一『志木地域の歴史と現況(その2)』、慶應義塾志木高等学校研究紀要第五輯、1975
  • 建部勇之助『植物相の現状分析』、慶應義塾志木高等学校研究紀要第四輯、1974

  • 他、北足立地域各市史等、朝霞図書館地域関連コーナーの各書。

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