地名と漢字

本文書は、廃棄済みです。甚だしい認識不足が非常に多いので、閲覧はおすすめしません。

趣旨

地名と漢字の関係について調査し、字のもつ力を考察し、何らかの結果を提出する。

材料

  1. 現代日本の地名はほぼ100%漢字である。(滋賀県マキノや北海道ニセコなどは例外中の例外!)
  2. 日本の地名には、漢字移入以前から、存在していたものも多い。
  3. アイヌ語圏の地名は、当然、漢字によって表記されなかったが、今ではほとんどが漢字表記されている。
  4. 外国地名の中にはあて字がなされているものも多い

漢字学に対して,地名で答えるというのも,おかしなものである。こういうものを書こうと思ったのはなぜか,というと実は「内面的要請」にもとづくのである。わたしが漢字を覚えはじめたのは,昔鉄道が好きだったもので,そこで,駅名=地名を時刻表から書き出したり,あるいは読み仮名を見て読んだり,そういったことからであった。

今,漢字学をみるに至って,そのときに地名と漢字というものを対照してみることで,何か漢字そのもの以外に得たものはなかったか? あるいは地名の漢字は何を表すのであろうか? ということを考えた。

世界地図を見てみる。私のものは高校生用のものだが,当然日本語。ぱっと見ると漢字の地名が,東アジアに広がっている。そしてまた,日本も同じく漢字。このことで,日本の土地は文字の上で漢字文化圏に組み込まれていることを納得してしまう(もっともそれ以外がカタカナ文化圏というつもりは毛頭ない。なぜならそれはカタカナ化によってそれを日本の文脈で捉えるという最低限の仕事に過ぎないからである)。

民俗学者柳田国男はいたく地名というものに興味を持った。長いが引用をいくつか。

……(地名を附けることが)既に人間の行為であるとすれば、其趣旨目的に無い筈は無い……

地名とは抑も何であるかと云ふと、要するに二人以上の人の間に共同に使用せらるゝ符號である。

……元来字や小字の名は久しい間人の口から耳に傳えられて居たもので、適當な文字は無かつたのである。然るに地圖が出來て文字を書入れなければならぬやうになつて村の和尚などゝ相談して之をきめた。其文字は十中の八九までは當字である。而も大小種々なる智慧分別を以て地名に漢字を當てたのは近世の事業であつて、久しい間先づは平假名で通つて居たものである。然るによし來たと康熈字典を提げて其觧釋に従事せられるのは聞えぬ。自分等が少し珍しい地名を人に言ふと、誰も彼も云合はせたやうにそれはどんな字を書きますかと聞かれる。其どんな字が甚だ恐ろしいのである。」

……其上に、人がこの地名を口で付けたか或ひは又文字で付けたかも、少し考へて見ればわかることである。或一つの土地の名の起りが、古ければ古いほど、そこには文字を知つている人は少なかつたらう。さうしてそこに住む者の全部が承知しなければ、地名などは行はれるもので無い。どんな氣のきいた字で書いて置かうとも、多數が讀んでくれなければ、地名として通用するはずが無い。

というわけで,字で書いておくと言うことの意義は多数が読むと言うことが前提である。そしてまた,「誰が」読むのかというのも重要なことではないだろうか。

わたしは,ここで北海道のアイヌ語地名について,特に詳しく述べてみるつもりである。なぜならそれは日本語ではないからである。また,同様日本語でないという意味で,外国語(非漢字)地名の漢字表記の意味も触れる余裕があれば触れてみたいと思う。

但し,地名に対する漢字という考え方は漢字学の範囲ではない。むしろ地名学に含まれてくる。しかし地名学の中では地名の様々の要素(字,音,意味,その他)のうち,どれか一つを格別重要視することも,どれか一つをおとして研究することもいけないとされる。しかしここでは時刻表から学んだ漢字は何だったのか?という私的な学問の形成ということで,これらのスタンスで書かれた書物群について,方法論には従わず,内容は引用する,という許すべからざることを許していただきたい。

地名の漢字表記

日本語が,古くは文字を持たなかったこと,また日本語独自のも字体系を持たないことはよく知られる所である。日本に文字,すなわち漢字が伝わったのは6Cはじめの稲荷山鉄剣に刻まれる模様が漢字であることから,ほぼ5Cのことかという。

日本の地名を漢字で表すには次の五法がある。

  1. 借音地名
  2. 借訓地名
  3. 正訓地名
  4. 正音地名
  5. 音訓地名

これを解説すると、

  • 1.は地名を一時一音を借りて音訳したもの。また字音転用したもの。
  • 2.は漢字の訓読みを別の意味の地名に借用してあて字したもの。
  • 3.は漢字の字義と地名の合致し訓で読むもの。
  • 4.は3.を音で読んだもの
  • 5.は重箱,湯桶読みである。

であるが,簡単に言うと,日本語(やまとことば)に漢字を充てたか,あるいは漢字に日本語(やまとことば)を充てたかということである。当然初期には前者(特に1)が多く,後代になるに従って,後者が増え,重箱,湯桶のようなものも出現する。

以上では,柳田国男の認識を追認するだけであるが,「文化圏」ということでものを考えるときに重要な政治認識が,和銅6(713)年の風土記編纂の詔で示される。

畿内七道の諸国は,郡,郷の名は好字を著けよ

同様延長5(927)年の延喜式22には

凡そ諸国の郷里の名は二字とし,必ず嘉名を取れ

とある。

ここに日本の地名が,日本語を飛び立ち地名語ともいえる世界へと入っていくこと,漢字文化圏に属したという二つの点が読みとれるのである。

前者は二字化ということでの熟字訓の始まり(飛鳥の明日香とか)であり,後者は中国瑞祥思想(つまり2という数への信仰)というかたちで表れている。

内的公文書に地名が漢字で記される。その瞬間に漢字文化圏への参入を意味するのである(またそれを用いた時点ですくなくとも文化圏への接触は認めねばならない)。

地名学ではここでさらに詳しく用例を用いる。そして、「……であるから,今日の字義で解釈してはならない……」ということになるが,私たちは漢字文化圏の拡大をここに読みとってみたいと思う。しかし,なにぶん古代のこととて,あまりに煩瑣な解釈や議論が必要となる。そこで,北海道のアイヌ語地名に漢字を充てたことについて考えてみる。

北海道の地名について

北海道の地名には,日本語地名とアイヌ語地名がある。日本語地名は日本人が入ってからついた名であるから当然それほど古くない。そして古来からあったアイヌ語地名には漢字で字が付いている。アイヌ語文字を持たない言語であったから,漢字を充てたのである。たとえば富良野はフラヌイという(本来この部分は字で書いてはいけないのであろうが)。意味は様々であるが,富める良き野ではない。

現代日本語の言葉は音と字によってなりたつ。音と字が同一の根をもつものならば問題はない。ところが名詞などでは、その言葉の字と音の双方が持つ背景の風土が異なることがある。そういうときその言葉の世界は多重の世界となる。

たとえば、北海道の地名は、アイヌの伝統的な地名を漢字によって表記している。字で、「富良野」「根室」「網走」「厚岸」と書いてあるイメージと、音に出して読んでみるのではだいぶ違うだろう。今でもなおアイヌの地名の音感がわかる。その音感の根底にはアイヌの文化空間がひろがる。北海道には二重の空間が存在し、北海道にすむ人々は二重の空間を同時に生きている。

文化空間は歴史がつねに流動するのと同様に、不定形の変容を繰り返す。であるから、上述してきたようなことは、どのような場所でも起こっているともいえる。

現実の空間においては、現代日本の一部であり、その世界は字を持つのだが,はたして,現代日本の文化圏の傘の下で,アイヌ文化圏というものが消えてしまっているのかどうか。

アイヌ語地名の漢字化にさいし,吉田東伍(大日本地名辞書の著者)はいう。

蝦夷語の原名保存と日本語の常習熟化はともに必要の事なり。この両事を調和するの法は原名の記録と同化・転訛の節制をあはせなすよりほかに途なし,転訛の節制とは,なるべき原語を保存しつつ同化の調和をはかるにあり。また,古来の訛称の久しきものは,今にして原名に引き返す必要もなかるべし,調和の得がたき原名は,延伸裁略,また必ずしも忌まず,ただ原義に考へ,文字に択むべし。

吉田は,文化の下にあって,はじめて地名が生きる、と考えているのである。であるから,その意味に従ったところで漢字を充てるならば,正当であって文化となるが,音のみを充ててはならない,ということになる。逆に,意味があっていてもそれによって日本語かをそくし,音をかえるという事もしてはならないという事であろう。

北海道の地名では,字は日本語に従っていても,音はそれに従っていない。つまり,未だに二重性を持っているという事である。

例えば「幌」という字がある。アイヌ語の「ポロ」を充てたもので,非常に大きく広がっている。ここまで慣用されていれば,アイヌ語地名であるという事がすぐわかるが,逆にもっと時間が経過したとき,日本語の新しい「訓」として定着するという事も言えないだろうか? 漢字は音と字の関係によって,二つの文化の吸収や合併などを実にスムーズに進める力がある。これこそが,漢字の持つ意味であり,また,漢字文化圏が誇りにすべきことではなかろうか。

もし,アイヌ語地名をカナで行っていたらどうであろうか。

やはり,感覚的に日本語内の準地名語として生き残れなかったのではないだろうか。そして日本語地名に変えられていったものではないかと思うのである。なぜならアメリカなどで原語が残っている例は,非常に少ない。開拓時代にどんどんと別名をヨーロッパから輸入されている。

アイヌ語地名は漢字化によって,逆にアイヌ語感を残しつつ,日本語地名となったのである。それによって,これらの地名はアイヌ語を理解しない日本人も知るところとなっているのである。

もっとも,現在,ここまで認識が進めば,現在アイヌ語地名はむしろカタカナでも良いようにも思われる。とにかく、ニセコアン・ヌプリからニセコというような不適当な引用がもっとも有害である。

漢字地名のレベル

文化の違い云々を言ったので,最後に外国(非漢字地名圏)の地名の漢字化について簡単に触れる。アメリカは亜米利加,イギリスは英吉利といったふうな振り漢字式のもの,アッツ島を熱田島,シンガポールを昭南島といった漢字の意味を残しつつ音に振るもの,そして最後に日本の地名を充ててしまうもの。

これらの各層はいかに漢字文化圏に取り込まれているかを示すものである。すなわち漢字を自ら使用する立場とそうでない立場である。

漢字を使用する場合の地名には,漢字の音に対する態度で漢字文化に対する近さが伺えるのである。

ただ,それがカナをはじめとした疑似漢字=表音化した漢字の場合はどうなるのか,それはよくわからない。

参考文献

  • 鏡味明克『地名が語る日本語』南雲堂, 1985.
  • 丹羽基二『人名・地名の漢字学』大修館書店, 1994.
  • 谷川健一編著『現代「地名」考』日本放送出版協会(NHKブックス), 1979.
  • 山口恵一郎『地図に地名を探る』古今書院, 1987.
  • 山口恵一郎『地名の論理』そしえて, 1984.
  • 山口恵一郎『地名を考える』日本放送出版協会(NHKブックス), 1977.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください