論評『アフリカ史を学ぶ人のために』

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はじめに

本稿は,岡倉登志編『アフリカ史を学ぶ人のために』世界思想社,1996より,

  • 第四章 岡倉登志「西アフリカの植民地分割と抵抗~サモリ帝国について」
  • 第五章 栗田禎子「東アフリカの植民地分割と抵抗~スーダンのマフディー運動とアフリカ「分割」のメカニズム」

を取り上げて論ずる。

一般にアフリカ史と言うときは,サハラ以南の黒アフリカ史を指す。よって,マグリブやエジプトはほとんどイスラーム史の枠組みで語られることになるが,スーダン(歴史的な意味で)からザンジバルに至る地域は,イスラーム史の枠組みで語られると同時にアフリカ史の枠組みでも語られる。この歴史での取り扱いから分かるように,実際にも文化は重層している。

そこで,本稿では上記2論文を選ぶ。マフディー運動とサモリ帝国は,いずれもヨーロッパ勢力の浸透とアフリカの近代世界への吸収,イスラーム世界秩序の解体が同時に進む中で,アフリカの独自性とイスラームの改革の動きを結合しヨーロッパ勢力への抵抗として表出させ,さらにその運動の終焉後はアフリカの植民地分割を進行させた出来事である。イスラームと近代とアフリカという三つのキーワードを軸にして,イスラーム化したアフリカへヨーロッパが進出を図る時期,どのような変動があったのか,そしてそれはどのような背景を持ち,どのような結果をもたらしたのか。両章をもとに整理して概観し,さらに興味深い点,気づいた点について,簡単な紹介と論評を織り交ぜて行くことを目的とする。

まずはじめに栗田論文よりマフディー運動の位置づけ,次に岡倉論文より西アフリカの植民地化と抵抗の中でのサモリ帝国の位置づけを見る。続いて両者の比較とイスラーム改革の中での位置づけ,現在への流れを総合して見てみることにするが,イスラームとの関連を重視するため前者の比重が重くなっている。

栗田論文について

本書は編者自身が述べるように,アフリカ史の簡略な概説書であるが,はじめにアフリカ史を世界史に位置づけた上で,時代地域順に,そこからテーマを抽出するような構成をとっている。

本章は,マフディー運動研究の第一人者である栗田禎子が,表題にある通り東アフリカの植民地分割と抵抗の例としてマフディー運動を取り上げたものである。栗田はマフディー国家とエジプトのムハンマド・アリー朝,その背後のオスマン帝国とイギリスをアクターとしてマフディー運動を概説している。

栗田は近年,歴史学から数点の論文*1を発表し(マフディーとはもちろん「導かれた者」すなわち「救世主を意味する言葉」*2である),マフディー運動を単に終末論的なジハードを唱える狂信的教団とのみ捉える従来の見方に再検討を加えた。マフディー運動に関する研究では他に,古い岡倉登志による論文*3や人類学的立場から言説を整理し現在の状況を調査した大塚和夫による研究*4がある。栗田の研究をまとめて,イスラーム地域研究的な立場からマフディー運動を紹介した最新の論文は,栗田禎子「マフディー運動の域内連関」『岩波講座世界歴史21-イスラーム世界とアフリカ』岩波書店,1998である。通常マフディー運動は,民衆の間での革命思想であるマフディー思想に基づいた既成権力への抵抗運動であり,イギリス/オスマン帝国/エジプトの政治体制全てを否定するラディカルな政治運動であったと理解されている*5。これを細かく再検証したのが栗田の作業である。一連の論文がマクロの視点からは,以下のようなことを明らかにする。

一つ目は,マフディー運動と「近代」の関わりである。

ムハンマド・アリー朝の成立と勢力伸長が,エジプトを中心とした北東アフリカ地域を「近代化」し,世界資本主義体制に包摂する上で,重要な役割を果たした。「近代化」はその過程で,エジプト軍によるスーダン征服を端緒としてスーダン社会に「激動」をもたらし,そのなかで新しい社会勢力の形成や,諸勢力間に新たな形の結合がなされた。一方で1850年代から80年代までにムハンマド・アリー朝の世界システムの中における地位の変化が生じた。

以上を背景にマフディー運動は表面的にはムハンマド・アリー朝への抵抗として始まり,開始と同時にヨーロッパ帝国主義との直接的対峙となったのだった。

ヨーロッパ帝国主義は,マフディー運動と対決する一方,ムハンマド・アリー朝の「アフリカ帝国」を解体を進めた。イギリスがマフディー運動鎮圧を口実にスーダンに深く関与していく過程は,ヨーロッパ帝国主義によるアフリカ分割の引き金を引くものだった。

続いて二つ目は,イスラーム内部でのマフディー運動の意味である。

十九世紀は中東の経済的・政治的従属化が一貫して進行した。支配者は弱体化を意識し、そのために支配者層は権威の強権的な引き締めを行った。その方策が,アブデュルハミト二世のスルタン=カリフ説のようなイスラームによる権威獲得であった。しかしイスラームによって自らを正当化した支配者は「西洋の衝撃」に適切に対処できていなかった。そうなると必然的に反支配者の側から、正当化に利用されたイスラームは正しくない=「宗教改革」を行わなければならない、という考えは生まれたのだ。マフディー運動は同時期に生まれた変革運動であるワッハーブ派やサヌースィー教団と一定の問題意識の共通性がある。その共通性とは,シャリーア(イスラーム法)の公正な適用,スーフィズムの改革,法解釈の復活(「イジュティハードの門は閉じられた」の廃止)であった。また政治的にもオラービー革命と密接な関係がある。

さらに以上をスーダンに密着したミクロな目から見ると,上記の各点は以下に対応する。

マフディー運動によって,歴史的なスーダンではない現在の「スーダン」という枠組みが用意されたこと。それはエジプト軍の侵略による「エジプト領スーダン」の形成=「近代化」によるものでもあり,やがてマフディー運動によって完成された。

エジプト支配下では,水車を単位とした過酷な金納による税が設定され,収奪が強化された。そのため換金作物が栽培され,商品経済が拡大し,技術の導入によって交通・通信が発達した。そこでこれまで見られなかった諸集団間の関係の発達が見られることになる。すなわちスーダンにおける「西洋の衝撃」では,他のアフリカ各地でのヨーロッパに当たるのがムハンマド・アリー朝であって,まさにその支配は植民地支配と形式を同じくしていたと言えるだろう(特に南部で顕著でイスラーム化されていない地域では奴隷化と工業化政策の結合がおこっている)。

このようなエジプトの強権的支配下で,移動商人(ジャッラーバ)は,領域統一と交通・通信の発展を背景に成長し,ネットワークを作り上げ,私兵(バーズィンキル)を蓄えた。ジャッラーバは,マフディー運動の指導的役割を果たした。それゆえにマフディー運動は教団の乱立状態を克服し,より普遍的な教団たることができたのである。マフディー運動は,カーフィル(不信仰者)=為政者=英・エジプト・オスマン朝への戦いであった。逆に言えば,ムスリムでなくてもマフディーに従えば同志であった。ここでマフディー運動は「国家」を生みだし,「国民」を創出したのである。

以上を見直すと,マフディー運動は近代化とそれに伴う社会の変動やイスラーム内での保守と改革,ヨーロッパの進出が絡み合い,やがてアフリカ分割へとつながってゆく流れの中にあったと理解できる。マフディー運動の場合には,構図としてはイギリスの圧力が覆い被さったエジプトによるスーダンへの「植民地支配」があった。

エジプトによって押し進められた近代化は社会変動を引き起こした。植民地支配によって,スーダンは領域的統一を得,運輸・通信が発達した。しかしそのようなときスーダンの民衆にとって,エジプトのムハンマド・アリー朝も宗主国オスマン朝も高度の収奪を行うので,ヨーロッパ帝国主義者と変わりなかった。否,イスラームの威を借りるだけ悪質であった。そこで民衆レヴェルから生まれ,「今のイスラームは堕落している。真のイスラームとは何か?」という問いかけ=思想*6の下,移動商人達の経済力をバックボーンとし,エジプトが用意した統一的スーダンの器にのって,現スーダン一円に起こった「近代への抵抗」がマフディー運動であり,民族解放・対帝国主義の戦いとしての自覚さえ得た。だがそれもまた近代の産物であることも確かであった,ということになる*7。ただ重要なのは山内昌之が指摘するよう*8*8に,スーダンでゴードン将軍が奴隷解放に尽くした人道的な役割と,マフディー運動が奴隷商人から支持を得ていたという文明と植民地主義のパラドックスである。このようなより文明論的な議論を避けて通ると,アフリカ史やイスラーム史の意味そのものがかなりうすっぺらになるのではないか,という気がする。

ともかくヨーロッパ=イスラーム=スーダンという三角の関係となり,それぞれがそれぞれに影響を与え合う独特の近代の幕開けを見ることが出来る。むしろヨーロッパの植民地分割は,この複雑な事情によって引きずり込まれていったのではなかろうかとさえ思わせるものがある。むしろスーダンがアフリカでなかったとしたら,エチオピアにおける三国同盟とイギリスの思惑などには左右されず,サウディ=アラビア王国のように復活して,今日まで続いている(しかしながら世界資本主義の側に変容して)可能性もあったかもしれない。その意味ではマフディー運動をやがてつづいてゆくネオ=マフディズムや,スーダンの「原理主義」体制を考える上でも重要であろう。

最終的にマフディー国家は1898年のカラリーの戦いでほぼ壊滅した。イギリス軍がこのまま南下して起こしたのが,ファショダ事件であったことは,意味深長である。マフディー運動は,西アフリカへも充分な影響を与えた。

それが前述の移動商人の私兵集団バーズィンキルの系譜を引く集団を率いて,西アフリカに国家を建設したラービフ・ファドル・アッラーフである。

岡倉論文について

栗田は列強-域内列強-土着勢力といったモデルを想定したが,一方岡倉は,列強とアフリカからの抵抗というモデルを西アフリカで設定した。もちろん両者ともイスラーム化というキーワードははずしていない。

この時期,西アフリカに成立したイスラーム国家は,フルベ族の聖戦に始まるナイジェリア北部のソコト帝国,ニジェール川大湾曲部のトゥクロール帝国,『アフリカ史を学ぶ人のために』で取り扱われるギニアの第一次サモリ帝国,コートジボワールの第二次サモリ帝国,先ほどふれた赤道中部アフリカのラービフ帝国がある*9。岡倉は本書ではサモリ帝国に焦点を当て,『岩波講座世界歴史21 イスラーム世界とアフリカ』で「十九世紀の西アフリカにおけるイスラーム化と植民地化」と題して,トゥクロール帝国とラービフ帝国を取り扱っている。

本書での岡倉のサモリ帝国の描写は,サモリ帝国の大まかな流れとヨーロッパによる分割の思惑,西アフリカ諸国の反目と遅すぎた連合(岡倉は「ティジャーニーヤ連合」の発展した「反フランス・イスラーム連合」と名付ける),そして滅亡を淡々と示すのみである。そこにアフリカ史を題打つ書物の中でのイスラームの取り扱いの難しさを見る思いがする。「岩波講座」では堂々と実証的にイスラーム化を検証しているが,「アフリカ史を学ぶ人のために」ではイスラームは抵抗の手段程度にしか見られていない。イスラーム化した離散集合商業体であるジュラ商人の活動をほとんど切り捨てて書かれていることも気にかかる。なによりサモリ帝国がジュラ商人にもつ背景を深く書かれていない。あまりに社会・経済的な叙述に無理がある,というより西アフリカ一般が論点にすら登ってこないのはどうしたわけであろうか。岡倉の記述はその著書*10に比べ,少々軽すぎるのではないだろうか。

西アフリカは19世紀中頃からセネガルへのフランス進出をはじめとして,比較的はやくから植民地主義との戦いが,東アフリカのように「近代」を体現する域内大国を通じず,直接行われた。その最たるものがハジ・ウマルの運動からトゥクロール帝国への一連の流れである。しかし数々の国家がひしめく西アフリカでは内的にも外的にも戦争が連続することとなり,商工業の成熟は阻止された。そこで政治思想的にはきわめて急進的なイスラーム運動となり,そこにあらわれたのがさらにラディカルなサモリの「聖戦」であったと思われる。

マフディー運動もサモリの「聖戦」もともに,アフリカ植民地化の危機下でのイスラームによる巻き返しだったと言えよう。しかしながらその背景は共通しながらも東と西で,かなり異なった形をとったとも結論できるように思う。さらに今日のセネガルから広がるイスラーム神秘主義教団ムリッド教団の動き*11を見るにも,一層西アフリカでのイスラーム化を見つめる必要があるだろう。

脚注

  1. 栗田禎子「マフディー運動の再検討-一九世紀エジプト領スーダンにおける「奴隷交易問題」の分析を通じて」『アジア・アフリカ言語研究』36号, 1988/栗田禎子「「聖戦(ジハード)と近代国家建設-スーダンのマフディー運動の性格規定をめぐって」『歴史評論』452号,1987/栗田禎子「スーダンのマフディー運動における「正統性」」小谷汪之編『権威と権力』岩波書店,1990ほか ↑*2
  2. 日本イスラム協会『イスラム事典』平凡社,1982↑*3
  3. 岡倉登志「スーダンにおけるマフディー運動(1881-98)とその意義」『立命館大学人文科学研究所紀要』28,1979↑*4
  4. 大塚和夫『テクストのマフディズム-スーダンの『土着主義運動』とその展開』東京大学出版会,1995↑*5
  5. 加藤博『イスラーム世界の危機と改革』(世界史リブレット37),山川出版社,1997, pp.55-57↑*6
  6. それぞれは必然的に各地方の歴史の中に組み込まれるが,一方また,再生への願望,もっと具体的には内部の衰退と外からの侵入に対する大々的なプロテストという,全体的な類型にも組み入れられる(W・C・スミス(中村廣治郎訳)『現代イスラムの歴史(上)』中央公論社(中公文庫),1998,p.97)↑*7
  7. 大塚和夫「スーダンの「部族」と「民族」」『岩波講座世界歴史21 イスラーム世界とアフリカ』岩波書店,1998↑*8
  8. 山内昌之『近代イスラームの挑戦~世界の歴史20』中央公論社,1996, p.379↑*9
  9. 宮本正興/松田素二編『新書アフリカ史』講談社(現代新書),1997-嶋田義仁執筆部分pp.409-423↑*10
  10. 岡倉登志『二つの黒人帝国~アフリカ側から眺めた「分割期」』東京大学出版会,1987↑*11
  11. 小川了『可能性としての国家誌~現代アフリカ国家の人と宗教』世界思想社,1998↑*12

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