عدلな社会をめざして——民主主義との相克


はじめに

前回は、イスラームの根本にあるコーランの中のアドルعدل(ʻadl)について発表した。アドルという語は、歴史のさまざまな局面で使われ、さまざまな含意をもったであろうことは一回目の発表の際に明らかである。そして第二回目の発表はコーランに示されるアドルについて、その概念を抽出するという作業を行った。これは上記のさまざまな含意と、そもそもの本質的な概念について一定の区別をするために有効な作業であると考えたからである。そしてコーランのコンコーダンスを使用して、さらにコーランにおいてアドルは政治的にはどのように表現されているのか?という作業を続けているが、敵さんがアラビア語と英語なものだから、一向にはかどらない。

そこで今回はアドルという言葉が現代のイスラーム世界でどのような政治的含意をもって語られるか?ということについて発表してお茶を濁すことにする。お茶を濁すといってもこれは非常に重要で、政治とイスラームの現代的かかわりのもっとも本質的な部分でもある。なぜならそれは現実のズルムظلم(ẓulm)な社会と対比してアドルな社会が語られ、その実現を目指すということが、政治的に非常に重要な目的となっているからである。そしてイスラーム復興の枠組みの一つでは、民主主義こそがアドルな社会の実現の一つの手段とみなされるのである。しかしながらその民主主義とはわれわれの目にする民主主義を直接指しているわけではない。なぜかというと、この枠組みの中では、民主主義とは、現代西欧でみられる民主主義の「手続き」のことではなく、アドルな社会を実現させる方向性のことであるからである。つまり、民主主義か否かは、その手続きの差異に求められるのではなく、実現しようとする目的によって判断される、と思考されているのである。そしてその目的こそがアドルな社会である。

シャリーアティーやホメイニーに言及する前に、現在のきわめて混沌としたイスラーム世界と民主主義のかかわりについて考えておいても損ではあるまい。彼らがアドルに事寄せて実現した社会がイランにはある。しかし決して民衆が充分に満ち足りた社会であると思っているわけではない。これは先の選挙の結果をみても明らかである。現代のムスリムの考えるアドルな社会とはいったいなんなのか、この問いも含めて、縷々考えを連ねてみようと思う。というわけで今回は、今後の研究に資するためのWorking Draftである。テキストには主にメルニーシーの『イスラームと民主主義』[メルニーシー2000]とエスポズィト、ボル『イスラームと民主主義』[エスポズィト2000]*1を使用する。

異議申し立ての論理

現代のイスラーム世界で政治的にアドルが語られる場面の中でも重要なのは、権力に対する異議申し立ての場面である。では、このときアドルとは一般名詞としてのアダーラなのだろうか?それともある種のイスラーム的価値観を含んだ言葉としてのアダーラなのであろうか?

ここでは、アドルという言葉が、控えめにいってもイスラーム的価値観の面から政治的に語られることを示す。これはパキスタンやイラン、マレーシアといったアラビア語を母語としない国々でも、政治的異議申し立ての言説の中でアラビア語のアドルが使われた、という事実からも類推できる気もするが、それぞれの国々でいったいアドルという言葉がどれだけ母語となじんでいるかはわからないので措くことにする*2

まず異議申し立てとは何か、である。一般に社会は一人からは成り立たないので、必然的にさまざまな利害が対立することになる。そこで利害の調整をおこなうのが政治の一つの機能である。また集団意思決定においても、その調整が行われねばならない。そして形成されている権力によって利害調整が行われる。その結果に反応するのが異議申し立てである。

これを政治学的にいいなおすと次のようになる。集団意思決定を集団構成員全員でおこなうのが自治であり、一部の少数でおこなうのが、統治である。論理的には、自治の場合は集団意思は多数者によって決定されるので、強制の契機は最小になり、統治の場合は逆になる。一般に純粋な統治も自治もほとんどありえないので、必ず両者の側面を持つ。そこで統治に対して、自治の権能が発動される場面が異議申し立てであると理解できる。

ここまでは当然の話であるが、問題は異議申し立てに関わる「権利」である。ある支配体制の内部で公式に異議申し立ての権利が保障されている状態と、保障されない状態は非常に大きな差異をもたらす。保障されない場合は、異議申し立てとは体制の否定であるからである。イスラームの伝統では「異議申し立て」が合法的に認められていると考えられる。それはシャリーアが援用されて、ズルムな統治者を打倒できるからである(当然、それ以前の話し合い=シューラーに統治者は応じねばならない)。中世思想では無秩序をズルムな統治より悪いとするようであるが、統治体制に対する異議申し立てのシステムを持っていたことは明らかである。

イスラーム復興運動の民主主義の論理

20世紀におけるイスラーム諸国の独立がもたらしたのは、多くの場合、伝統的な異議申し立てのシステムをも拒絶する権威主義体制であった。

そのような体制が、民衆を抑圧してきたのは事実である。しかし一方でイスラームを利用したのも事実であり、現在も状況は変わっていない。イスラーム復興運動は、このような体制に対するアンチテーゼである。そして民主主義も、一般民衆の政治参加、という意味合いからやはりアンチテーゼとなり、ここにイスラーム復興運動と民主主義の共闘が成立しうる余地が生じる[エスポズィト2000]。

しかしながらイスラーム復興運動の側でも、もう一つの解釈が成立しうる。それはこれら権威主義政府を援助し存続せしめているのは、とりもなおさず民主主義を標榜する先進諸国である、という認識である。それに従えば、敵の味方は敵であるから、民主主義とは反イスラームなものとなるのである。

現代において民主主義とは、冷戦の終焉によって自由民主主義を指すことが多い。アドルな社会とは、民主主義の実現と両立するものなのか。前者の立場に立てば、民主主義とはアドルな社会を実現するために格好の手段である。なぜならばイスラームには異議申し立てのシステムも、シューラーという協議の原則も伝統に根ざしているからである。

メルニーシーのアドル観

本節ではフェミニストでもあるメルニーシーの『イスラームと民主主義』[メルニーシー2000]における政治的言説としての「公正」について考える。

メルニーシーの立場は明瞭で、一貫して世俗主義的である。強引に要約する。イスラームの伝統における政治構造(統治者と被治者の関係)は、基本的に支配-抑圧関係であり(当然、女性は後者の代表である)、ズルムな統治者の追放の合法性という柔軟さを認めつつも、それは支配-抑圧構造におけるプレイヤーの入れ替わりに過ぎなかったとする。その上で、シャリーアはこの構造の根本であり、抑圧の道具となってしまい、イスラームに本来備わる「自由」と「基本的人権」の観念はイスラーム史の中で失われていった、と考える。ゆえに普遍的価値たる自由と人権は「世界人権宣言」の観念に従って取り入れねばならないとする。当然これに対抗することになる現権威主義政府も、イスラーム復興を唱える原理主義者も、支配-抑圧構造の支配者の座を巡るゲームのプレイヤーを演じているにすぎないし、原理主義者が政府に突きつける「公正」もその中でのカードに過ぎないから、これに惑わされてはならない、ということになる。

つまり現状への異議申し立ての中で、メルニーシーのような立場からは、アドルとは伝統構造の中での異議申し立ての道具であったから、その構造を打ち破るためには捨て去るべき主張であるということになり、復古主義以外のなにものでもないものと写ることになる。このような立場が存在することも十分に注意する必要がある。

しかし私はこのような論調は少々安易にすぎるように思われる。中国政治に関していえば、天安門以前にはやった「市民社会論」そのもののように見えるのである。つまり非常に楽天的な近代啓蒙主義的主張である。メルニーシーはイスラームの廃棄を訴えているわけではない(全くそのようなことはない)のだが、果たしてそれでは後にのこるイスラームとはいったいなんなのか? ムスリムとしてのアイデンティティを支え、その社会のアイデンティティを支えることのできるイスラームなのか。そもそもイスラームと呼べるのか、非常に疑問である。女性の抑圧とは単に伝統のみから生まれるものではない。経済構造、社会構造からも十分に影響を受ける。であるならば、単なる理念の西欧化でことが片付くとはとても思えないのである。むしろ西欧的理念にある程度対抗できなければ、先進国から都合のよい権威主義政府を押し付けられるだけであり、問題は解決しないまま、先鋭なイスラーム復興主義がはびこるのではないか? メルニーシーの考えるイスラームはイスラームのダイナミズムを捨象しきったあとに残る残りもののようなものではないのか?

おわりに

以上、我々はイスラーム復興運動におけるアドルの言説と、民主主義との関わりをみてきた。まとめると現代のズルムとはまさしく権威主義的抑圧を指していた。そして、権威主義への異議申し立ての言説としてアドルが用いられていることを見た。結局アドルとはズルムに反対するためのコンテキスト的な役割以上の概念に過ぎないのだろうか。民主主義はそのアドルへの道であれこそすれ、これまたどのような言葉を使うかというだけの話であるということも見た。

メルニーシーの認める普遍的「民主主義の価値観」がムスリムにあまねく認められるとは思えない。それを伝統主義とみるかどうか。そのためにも伝統的アドルについても考える必要がある。やはりアドルには歴史に基づく観念があるのではないだろうか? イスラームと民主主義の議論は非常に重要であるし、面白い。しかし、ここはアドルの概念が現れる一つの場面に過ぎない。次回はコーランにおけるアドルの続きの発表になるはずであるが、それ以降は順次さかのぼる形でアドルの伝統をみていこうと思う。最初のターゲットはイラン・イスラーム革命におけるイデオローグ・シャリーアティー博士である。

脚注

  1. 本筋には関係ないが、[メルニーシー2000]で私市氏も指摘する通り、この本には明らかに誤訳ではないかと思われる点や、表記の揺れ、不適切な訳語などが目立つ。原文を参照していないので偉そうなことはいえないが、日本語で読んでいる上でも明らかな論理矛盾なども散見された。まっさらな頭で読むとイランにはまるでイスラーム法学者と聖職者が別々に存在するかのように読めてしまう。訳注もないので、参照するならなるべく原文で参照するようにしたい。原著は、[Esposito 1996]である。
  2. たとえば日本で学生運動華やかなりしとき「革命」という言葉がたからかに謳いあげられた。これをもって日本には易姓革命の思想が流れ込んだなどといえただろうか? これを中国語と思う人は誰もいなかっただろう。そういうことである。

参考文献

  • ジョン・エスポズィト、ジョン・ボル 2000 『イスラームと民主主義』(宮原辰夫、大和隆介訳) ,成文堂
  • Esposito, John. Voll,John., 1996 Islam and Democracy, Oxford.
  • 小杉泰 1995 「統治の目的――イスラーム政治史の眺望から現代へ」湯川武編『イスラーム国家の理念と現実』講座イスラーム世界5, 栄光教育文化研究所.
  • ファーティマ・メルニーシー 2000 『イスラームと民主主義-近代性への怖れ』(私市正年・ラトクリフ川政祥子訳),平凡社
  • コーラン 1957-58 『コーラン』上・中・下(井筒俊彦訳), 岩波文庫, 岩波書店.
  • 嶋本隆光 1981 「イラン立憲革命(1905~1911年)初期におけるウラマーの役割と公正(‘adl)について」『アジア経済』22-6.
  • Tyan, E. 1960 ‘adl, The Encyclopedia of Islam, new ed. , Leiden.
  • イスラーム地域研究第2班aグループ「理性と宗教」研究会報告:ファーティマ・メルニーシー「イスラームと民主主義」書評会 http://pweb.sophia.ac.jp/~m-kisaic/meeting/010303report-b.html

履歴

  • 2001-Sep-10: Original.
  • 2001-Sep-14: シャーリアティという誤植をシャリーアティに訂正。同様に見方を味方に。

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