中国民主化のポテンシャルと伝統

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目次

1. はじめに

本稿では、中国における「民主化」ないし「市民社会」の成立のポテンシャルについて、中国の「伝統」や「基層文化」およびインターネットなどの媒体の世界的展開も視野に入れつつ、「原理的」に考察することを目的とする。

1.1.

1979年の中共第11期三中全会にはじまる改革開放路線にもとづく経済の自由化傾向にある中で、中華人民共和国の「発展途上国」的相貌が強まってきた。その中での1989年の第二次天安門事件は、冷戦の終焉というインパクトや東欧旧共産主義諸国の「民主化」とあいまって、開発独裁国ないし権威主義の中華人民共和国の「民主化」にかかわる議論を盛んにしたと言えよう。

一方で、経済は冷戦の終焉の後、合衆国、連合王国での新古典主義的経済政策による建て直しを経て、「インターネット」という媒体の世界大の展開を巻き込み、いわゆる「グローバリゼーション」の潮流のイメージを強化した。

ここに合衆国モデルを中軸として、政治における民主自由主義、経済における市場至上主義、コミュニケーションにおける「インターネット」インパクトをイメージとしてブレンドした「グローバリゼーション」像が形成された。経済での一応の成果を収めながらも、それが政治にリンクしているとはいえない(つまりいわゆるリプセット命題が否定されたかのように見える)世界最大の人口を抱える巨大な「発展途上国」中国における「民主化」のゆくえに注目が集まっている。それは私たちの持つ「民主主義」の精神の価値と普遍性について鏡を通して確認することになり、必然的に「~べきである」という一種の「価値先入」的なこだわりを一部に抱えつつ議論されることになっている。つまりこの「民主化」の先行きを考えることはそもそもの「民主主義」とは何か、を考えることにもつながるのではないだろうか。

1.2.

そして迎えた1999年10月。中華人民共和国は建国50周年を迎えた。象徴的なことに、これに併せて、この50年の中国共産党による中国統治を日本において総括するねらいも含めたと思われる中国現代史の3冊の概説書が新書として刊行された。それぞれ新中国においても中華帝国から変わらなかった「伝統」「連続」が言及される*1。実際にそれは権威主義モデルや東欧の共産主義モデルを単純に中国に適用して「民主化の比較政治学」の見通しに役立てることをはばんでいるがゆえに強調されるのである。

では、「伝統」「連続面」とは何だろうか。相次ぐ革命で中国人の社会的思惟も大きく変わったはずではなかったのだろうか。ところが、実際に中華人民共和国建国後の土地改革や恣意的な「人治」など、上からの政策において伝統的な「均」の発想を読みとることも難しくないし、下の社会において、人と人のつながりが地縁血縁を含んだネットワークに依存しがちであり、役人が自らの立場を利用した汚職など、旧態同様としかいいようのない状況も見て取れる。しかしだからといって社会秩序の恣意性、中間団体の任意性・私人性、制度的性格の欠如を強調しすぎると*2、ポテンシャルそのものを否定する「欠如論」に陥ってしまうだけであろう。

では、結局、すくなくとも民主主義の必要条件に市民社会の成立があげられることを考えれば、中国での市民社会の成立や民主主義化のポテンシャルに、その「伝統」はどのようにかかわってくるのか。このように考えざるを得ない。プラスであろうか、マイナスであろうか。そして「公正」さに照らしてどのような政治体制と社会の関係がより望ましいのであろうか。法治にしたところで、現在中共の進めている政策は、rule of lawというよりはrule by lawである。ところが、一概に西欧型の市民社会によって中国に「公正」な世界があらわれるのか?となるときわめて話はあやふやになってくる。

1.3.

そもそも民主化とは、民主制を確立することである。すなわち人々の政治参加と諸権利、政治的競争と選択、権力に対する監察と制約を保障するメカニズムを制度化することである。そしてその制度を正当化し、守る社会的基盤が確立されることである。

ここで問題となるのは、社会において「民主化」がいかなる正当性を持ち得るかであろう。それを考えるに当たって「公正」を導入する。人が物を所有し、人と契約し、交換・取引する。これらの行為が、あるときは正当な所有として保護され、別な場合には、盗みや略奪として排斥される基準はなにか。現代国家では、合法であるか否かが基準となるが、それとともに、自然と人間、人間と人間の間であるべき関係や秩序が想定されているだろう。それを「公正」とするならば、政治はこれを規定し、確定し、導入する役割を持つ。としたら、中国はどのようにこれを処理するのであろうか?

以上を問題意識としつつ、始めに掲げたことを考えていきたい。

2. 「市民」と「公共圏」

2.1. はじめに

日本の社会科学は戦後、アジア太平洋戦争の戦禍をもたらした政治制度に掣肘を加え、そこからあるべき自由民主主義社会や社会主義社会をモデルとして「創出」しようとする方向性があった。「市民」の不在。「無責任」。そして学ぶべきはヨーロッパであった。ヨーロッパからモデルを抽出し、その抽出したモデルをヨーロッパそのものとして理解しようとしたのではないか。アジア的生産様式論はその典型ともいえよう。そして「学ぶべきヨーロッパ」の裏返しのテーゼ、アンチテーゼとして憧憬の中にあったのが新中国であった。

これはつきつめれば、停滞史観と革命史観ともいえよう。中国はあくまでヨーロッパと日本との比較の視座の中にいたといえる。その反省にたつのが「方法としての中国」であり「中国自身に即したアプローチ」ではあるのであろう。

しかし近代中国もまた、ヨーロッパを理解しやすいように極度に理念化し、師となすべきヨーロッパを描き近づこうともがいてきたのも、おそらく事実である。中国も同様の方法で、近代化を果たし「自強独立」をめざしてきたのだ。日本と同様のアプローチで、中国は近代化を目指そうとした。これは世界中どこにでも見られた近代の特徴であろう。しかし政治思想上ここには漢字による西欧思想の中国思想への読み替えをはじめとする落とし穴があり、バイアスのかかったヨーロッパ観になってしまったであろう。つまり中国的基層の上にのるかたちでの西欧理解である。

溝口雄三は大同思想の成熟あったればこその「近代中国」という。清代には朱子学的「公」のなかに民衆の生存欲も組み込んで「疑似コモンウェルス的」「公」が形成された。こうした新しい「公」は、「大同思想」の伝統をひきつぎながら、太平天国や孫文の「民生主義」から人民公社にまでつながる思考様式で、「革命のエネルギー源」となった。実際に政治的表層を追跡すると、それは専制と強制の原理ともなったといえる。問題は、それがあくまでも「公正」であったからこそ持ち得たエネルギーであったという点である。そしてその「公正」さが現代中国まで正当性を持ち得ているのか、あるいは喪失しつつあるのか。そしてその「公正」こそが社会のあり方を決定する政治を規定している。また現在伝統の残滓と共に民主化についても検討しなければならない。その中で改めて「公共」「公」と「私」を論じ、一方で所有のあり方から、中国での「伝統」的政治傾向を検討する。

2.2. 中国における西欧思想とその理解におけるズレ

市民とは何であろうか。「『市民』とは、ある社会がそれを構成するすべての人の『自由、平等が保障されるべきであるという建前を有する場合』の、その構成員」*3という定義がある。ここで重要なのが、自由、平等、建前である。そもそも自由と平等とは対立事項である。そして建前を有して世界を保ってきたのが中華世界であった。この中で、いったいどのような余地から入り込み、発展させていくことができるのだろうか。

ここでは、ハーバーマスの公共圏の外縁を敷衍し、そののち中国における「公」の概念について考える。

2.2.1. 「公共」

「公」のあり方と政治の関わり、市民社会の成立を考えるときに、言及されるのがハーバーマスの「公共圏」である。長いが、本論の中心となる議論の概略なので、その史的展開について、ハーバーマス、アーレントに負い、さらに若干の中国との対比をまじえて論ずる。公共圏という概念は何かということを考えると、その語が多義的であることに気づく。ハーバーマスによる*4とその語義は

  1. 「公共の催し」などの誰でも参加や利用が可能な事象のこと
  2. 「公共建築物」などの全ての人々の共通の福祉を目的とする国家の諸機関に与えられる性格
  3. 「公式接待」などの代表としての威容を顕示するもの
  4. 「公衆」「公開性」などと連関する語義

などに分別できる。しかし市民社会に特有な圏としての「公共圏」という語はドイツではようやく18世紀に使われるようになった。しかし「公的」なものと公的でない「私的」なものとの区別はより古く、公共圏の議論で想起されるもう一人の碩学ハンナ・アーレントに従うと、公的領域と私的領域の概念は古代ギリシアまで遡る*5。ギリシアの都市国家では、ポリス(Polis)の圏とオイキア(Oikia、家庭)の圏は峻別されていた。ポリスの市民は、自らの生活に必要な領域としての私的領域を所有することを前提として、自由の領域である公的領域で市民として、個性を発揮するために司法や防衛や公的問題の管理を担う。

しかし中世ヨーロッパにはそのような領域間の峻別は存在せず、存在するものは私的領域の拡大したものである世俗的領域だけであった。ここにあとで概略する中国における「公」と「私」の議論が、『孟子』に従って延々と展開されていったのとは対照的であることが言える。ギリシアにさかのぼること、ここに意義がある。確かに、公的なもの、例えば君主の支配を公に顕示する象徴物は存在したし、それを誇示する行為も行われた。ハーバーマスはそれを「代表的具現の公共圏」と呼んだが、それはハーバーマスの私的領域との関連で捉えられる公共圏とは無縁なものであった。つまりギリシアをたてることによって否定しうる「前近代」を存立させ得たのである。

近代に至るまでに、「代表的具現の公共圏」は封建的諸権力の解体過程とともに衰退していく。封建的支配の諸要素は、官僚制、軍隊、議会という公権力の機関の構成部分へと分化し、また国王家産と国有財産の分離が当然となり「社団国家」の成立を見る。これらの諸要素は「公権力」の領域に属する。同時に、ギリシアにおいては狭い家庭の範囲に限定されていた家計(私的経済活動)は、既に家(Oikos)を基準とせず、家の代りに市場が登場してきた。このような経済的諸条件は当然小家族の生活圏の埒外に属することになり、はっきりとしてきたその社会的再生産の生活圏はここではじめて一般の関心事となるが、それは貿易や市場に対する政治的保障を必要とすることになる。この頃の段階では「公的なるもの」は重商主義政策をとる公権力の主体たる国家と同義語であり、その公権力とその客体たる私人という構図が生まれる。

ここでまた中国と対照することが許されるであろう。中国における貿易・市場・契約に対する政府の保証はきわめて弱い。中国では少なくとも宋代以来、土地売買や小作契約など、経済関係の主要部分が「自願」の契約によって営まれていた。その点では「契約社会」的性格が強い。しかし一方、所有権を保護する法律、その実効性を保障する司法機構といった、契約を支える制度的なインフラ整備において、中国の国家が無力ないし消極的であったため、中国の市場は不確実性に満ちた弱肉強食的な「自由さ」をもっていた。その不安定性をのりきるために、人々は有力者のパトロネージや任意的同業団体といった人倫的な絆に頼った。私的な契約が公的(アンシュタルト的)秩序によって支えられる「契約社会」の姿ではなく、契約を支える秩序自体が私人的・任意的(ネットワーク的・契約的)に形成される傾向をもつ。近年寺田浩明は、明清中国において、秩序そのものの形成とそのなかで結ばれる取引契約とが、ともに「約」という語で表されていたこと、そしてその「約」が「合意か強制か」といった二者択一的問いには馴染まない「斉心(心が一つになる)」状態を意味していたことを論じた。ウェーバーの語でいえば、「身分契約」と「目的契約」との双方をともに対象とした契約であったといえる。このような国家に対する自立性は「公共」があくまでも社会の側にあったと言えよう。

ヨーロッパでは、中国と違って公による客体としての私という構図は、この体系の第二の要素である情報交換が変化させた。新聞は私的通信に始まり、商品へと発展していったが、行政当局も命令や指令を公示するための道具として新聞を利用するようになる。ここに至って、公権力の受け手は初めて本格的な「公衆」となったが、その中心は教養を身につけ、読書する層であるブルジョワである*6

そのブルジョワたちは、公権力との相互作用の中で、市民社会の私有圏への公共的関心を高めていった。ハーバーマスはそれを「市民的公共圏」という用語で、市民が「議論する公衆」として参加し、公論の形成を目指し、それらの問題に対処する社会空間と定義した。その公共圏は、当初は文芸サロンやコーヒーハウスなどにおいて、知識人やブルジョワによって芸術や文学についての議論や作品の批評が行われていた「文芸的公共圏」として、その原初的な形態を見ることができた。やがて彼らは政治的または経済的な社会問題に対して議論し、意見形成を行い、「公論」としてまとめあげ、その公共的関心を抱かせる問題に対処するようになった。内田隆三によると*7その文芸的公共圏の特徴は以下の三点に共通の基準を見ることができる。

  1. 社会的地位を度外視するような社交様式が要求される
  2. それまで問題なく通用していた領域を問題化することを前提
  3. 万人がその討論に参加しうる

このような特徴を当時の文芸的公共圏は備えており、これはそのまま市民的公共圏の特徴へと当てはまる。こうして政治・経済権力に対抗するために成立した市民的公共圏であるが、19世紀中頃から今世紀にかけてその変容を余儀なくされる。市民的公共圏の担い手であるマスメディアがその影響力を増大するにつれて、商業的宣伝のために利用されるようになった。そのために市民的公共圏成立の原則である、公的領域と私的領域の分離が不完全なものとなり、個人や特定の集団の私的利害を守るために公論が形成されるようになる。さらに無産的な一般大衆をも相手とするようになったマスメディアが政治的に利用されるに至って、市民的公共圏に必要不可欠な公開性は、その批判的な性格を失っていくのである。しかしあくまでも19世紀ヨーロッパにおける市民社会は、公共圏の成立をもって、その必要条件とするのである。

2.2.2. 「公と私」

公共という言葉には「公」が含まれる。ここではそれを検討する。概ね「公」とは「私」に対する言葉として理解できるが、中国ではどのような形で「公」が扱われてきたのだろうか。以下、溝口雄三の議論*8を参照し、かつ文革期「破私立公」のスローガンを並べてみることで、近年までの「公」観を概観する。

溝口によると、中国の公とは「つながりの共同」であるという。日本のそれと比較すると日本の場合は「領域の共同」であるため、中国の「つながり」には「私」が含まれ、日本の「領域」には「私」が含まれないという。溝口は康有為から「人人は皆、公産に教養せられて私産を恃まず、人人はたとい私産多くとも、亦た当にこれを公産に分かつべし……」『礼運中』を引用して、「私」は「公」のなかにみずからを投入することにより、それ独自の領域を共同性の中に融解させている。これはすなわち、つながりの公は私と私をつなげるという形で、私を含むが、私はつながりの公のなかで私的関与分を主張でき、一方で、他の私とむすびつけられることで、つながり=公から切り離された自己独自の領域を持つことはできないとする。

展開すると、公=官の日本とは異なり、公とは全体のことであり、私を主張し、その権利を主張することは、むしろ公への叛乱ということになり、私と公が相対立し並存した日本とは異なる状況を呈したということになる。

清末の思想家である厳復は西洋の発展の秘密を、個人が自己利益を解放しつつ、そのエネルギーを集団の目標にも集中し得る点に見出し、個々人に共有されている「公共心(公心)」こそが、それを可能にする要因であると分析した。しかしここで重要なのは、同時期の陳天華が論ずる「総体の自由」という観点からの民権共和主義があったことである。彼にとって、個人の自由とは、私人の自利、個人・強横の専制であった。民権共和とは、これに対して、国民・人民総体の自由の主張であった。これは孫文の三民主義の民権にも通じる。

文革期に「破私立公」というスローガンがあった。これは、文革初期に林彪によって提起され、文革中、最も広く流行した政治スローガンである。政治統合を推進する上で「公」の観念が問題にされたのは文革期が最初のことではない。しかし「破私立公」を通じて目指された統合では、個人の自己利益の解放は「私」として退けられた。代わって自らの利益を抑制し、集団(国家)の利益に従属させることで、一切を党と人民のために奉げることが「公」として称揚された。文革期には全ての民衆が「私」を放棄して「公」の観念を獲得することが目指されたのである。

一方、「公」の世界観獲得の手法として具体的に提示されたのが、毛沢東思想の活用であった。だが、その実態は個々人の持つ一切の思想・信条を放棄し、毛沢東思想によって全人民の思想統一を行うことを目指すことにあった。その結果、毛沢東思想の実践=「公」、あるいは毛沢東への忠誠=「公」といった主張が展開された。それらは民衆の革命に対する情熱には貢献するが、個人の主体的な考察・行動を制限し、彼らを集団化・画一化するものだったのであり、大衆運動のレトリックの一つとなり得た*9

前述したように、陳天華は共和制の目的を「集団(国家)の自由」の獲得に置き、「個人の自由」はその障害にさえなり得ると考えていた。孫文もまた同様である。彼らが民衆を統合することで創出しようとした「国民」とは、集団で国家/総体のために奉仕する存在であった。そこでは「個」と「総体」とは対抗概念としてイメージされる。総体をもって独立した「個」の集合体として認識しない状態は宿命的でさえある。

2.2.3. 「民主」の読み替え

孫文にとって、中国において問題なのは、自由の不足より過剰であった。盆上散砂たる中国民衆は、限りなく無拘束で自由な状態であり、民族としての団結力が欠けていると見た。この団結の欠如を解決するための方策こそが、革命であった。自由にして団結のない中国には、民族が必要であるのだ。ここに民主主義は、民族主義へと圧殺されてゆく過程があった*10

そしていわゆる三序の途中形態として「訓政」は必要となり、そしてあるべくして専制化してゆき*11、訓政そのものも未完と終わり、民主主義的憲政にはついに到達することはなかったのである。

2.3. 所有

私的所有は近代市民社会のよって立つところである。私的所有のもっとも明白な制度は土地所有である。

しかし土地所有に関しても中国とヨーロッパを比較した場合に大きな差異がある。ロックは所有について「国家以前的な労働による所有取得」とする。すなわちそこに国家も権力もなく、個人の権利があるのみである。

その一方で中国では、古代の聖天子による「井田」がすたれた結果が私有田の存在であって、あくまで「王土あっての分田」であった。そこには天下以前的な権利の主張の余地はなかった。儒教の自然状態における「仁」に見られるとおり、君あってこそはじめて自然なのである。

2.3.1. 中国における土地制度

後期帝政中国において、土地制度は、古代「井田」をモデルとした国家統制と自由放任と土地集積による経済刺激策の二点間の揺れとして捉えられる。まず王朝草創期に「井田」の思想が「均田」策などで、はっきりと統制政策として打ち出される。ところが、王朝の安定にともなって資本の流動性を阻害する要因になると自由化が希求されることになる。そして、その自由化は現状に追随する税制改革としてあらわれる。明の張居正の改革や、清の雍正帝の地丁銀導入はそのような動きとして考えられる。

そのような中で、「井田」に偏って経済を硬直させず、反面、「放任」に偏って社会経済に対する国家の影響を摩滅させず、バランスをうまくとって「全体の秩序」を維持するのが君主の責務であったのが中国の伝統である。

すなわち、あくまで統制・自由化といっても、現状の弊害とそれに対する国家的介入の必要性と、現状に無理に介入することの比較考量であったといえる。理念として統制・自由化を推進するというより、両極の理念を併せ持ちつつ、既成事実=勢をどれだけ容認し、そこに対策を打ち出すかというリアリズムのもと、どうのように経済運営を行うことが、全体社会の安寧にとってもっとも最適であるかという問題意識のもとの立論*12なのである。

2.3.2. 土地所有制と民主化

土地改革・改革開放による「自由化」もこの文脈から理解できる。つまり「全体の秩序」の維持のためと捉えることができる。そのような立場から人民共和国五十年の歴史を考えると次のようになる。

人民共和国建国後五年から十年のあいだに反右派闘争とならんで行われた極端な土地改革はそれ以前の村レヴェルの所有は、極端に自由な形で郷紳層による土地集積が特徴であったことの反動であった。ろう。大躍進、文化大革命における集団化による農業生産の停滞が国家の発展を阻害し、社会の混乱もそこに起因すると発想するならば、集団化はまさしく「全体の秩序」への反抗と考えることができる。

以上の議論から言えることは、現在の改革開放をになう現在の中共中央もきわめて「伝統的」なアプローチから現実の経済環境を整えようとしたわけで、「権力」と「権利」のせめぎ合いとして捉える「権利」から出発して市場経済をうち立てようとしているわけではないということになる。

整理すると「全体の秩序」を維持するために先行して存在する権力が人民に「権利」を与えるというのが現況の中国共産党の政策といえる。権利ある市民の総計し、そこにその権利のあり方を定める民主主義と一概に概括することはできない。

では、近代市民として、「公」と並行して存在すべき「私」へと中国の「私」が変化する可能性はどの程度あるのだろうか。これには近代的所有制の確認が必要であろうと思われる。そしてそれは「責任」とヤヌスの両面のようにしてはじめて主張できる「権利」という形での発想が可能にならねばならない。

しかしながら近代的所有制への移行は、すなわち私的土地所有の容認ということであろう。現在の中国の農村における土地所有は、村共同体による集団所有である。これが国家の食糧と農民の収入を保障していると言って良い。ここで土地所有が自由化されれば、土地なし農民の出現もやむなしという状況に陥る。問題は、それがどの程度の規模となるか、であるが、相当大きな人口がそのような層へと転落する可能性が大きい。このとき、はたして「権利」と「責任」の議論によって、彼らを納得させることができるであろうか。

2.4. 小結

以上に論述したような漢字へと思想は読み替えられ、「自然状態」的発想から、本来中国に存在する「権利」意識と考えてしまう。基本的に、自由はあっても「権利」はない社会であってと想定されつつも、そこで自由の過剰を忌避し、集団/総体としての国家の再生を目指したのが近現代中国社会あったのではないだろうか。

よって権利創出はその努力を与えられる機会はほとんどなかった。にもかかわらず中国固有の社会関係とそれに相互作用する秩序意識は結果として、「権利」や「民主」の概念のなかにも通底するものがないとは言えないだろう。しかしそれがいかなる形で制度化されるかは、議論が必要となろう。

3. 現実としての中国

3.1. はじめに

近現代中国は、あからさまに富強自立の国民国家をめざしてきた。しかしあまりにも多くの挫折をへてようやくその夢に近づきつつある。しかしこのときに、達成すべき目標は、当時目標であった国々にとっては古いものとなってしまっている。この時、中国は空間的にそして社会の意識からいかに中国でありつづけられるのか。国民国家の前提は市民であり、国民である。しかしその創出に失敗してきた中国が今度こそ国民を作り出せるかどうかは、支配空間の多様性とあまりにも多くの農村から制約を受けざるをえない。本章ではこれらを中心に検討する。

3.2. 空間

近代国民国家は領域を伴わなければならない。この領域は大元ウルス以降の大中華であり、清朝が確定し、民国、人民共和国と継承したものである。

そもそも中国とは何か。中国人とは何か。中華人民共和国の望む民族国家・国民国家としての中国は、17c以降東アジアにおいては19cに形成された世界経済ネットワークの望んだ政治的基本単位「ネイションステイト」である。それ以前の、さまざまな世界が多重にかさなりあった時代に望まれた政治的基本単位は「王朝」をはじめとするものであったように思われる。たとえばヨーロッパにおいては概念にすぎないにしろ普遍的宗教世界がラテン語によって保たれていた。「国家」とあえていってしまうことによって近代国家を前提としてしまう陥穽を避けるために政治的基本単位と呼ぶことにする。

政治的単位のあり方は、社会のあり方、そしてその社会を構成する人々の考え方、行動様式から規制をうけ、相互作用でありつつも当然変化するものである。前近代から近代へとネットワークのあり方とコミュニケーションの取り方は変化した。技術決定論的ではあるが『想像の共同体』が指摘するとおり、活版印刷の普及はネットワークのあり方を劇的に変化させ、政治的基本単位のあり方を変化させた。では、近代から「ポスト」へはどのような変化が起こりうるのだろうか? 国民国家「中国」という枠組みでの民主化ということは、まさに復古主義的でさえある。

人は、そのアイデンティティを単純に一国家一民族一言語に置いていたわけではない。さまざまな人と人との関わりにおいて、さまざまなコミュニケーション空間やさまざまなコミュニティに対しアイデンティティを持っていただろう。つまりアイデンティティとは重層的なものである。これを理念として否定せずに収めずにはいられなかったのが近代国家システムであろう。オスマン朝の宗教に基盤を置く比較的共存性の高い社会は存続できなかったし、ハプスブルク朝オーストリア=ハンガリー二重帝国の民族に基盤を置きつつ皇帝(ハンガリーでは国王)にその統合性を求める実験もうまくいかなかった。ここでネイションステイトの問題について、あえて鈴木董によると13「ネイション」の訳、「民族」と「国民」の二つの顔を注意せねばならぬ。ヨーロッパにおけるネイションステイトの形成においては、「国民」が表に出た。原理的に国民は「ある国家の市民権を持つ総体」であり、歴史の共有も文化の共有も問題とはならない。しかしその国民は、文化と歴史の共有によって凝集力を高めうる。その段階を踏みヨーロッパでは国民が形成され、民族が形成されたのだ。ところが、後発的に「西洋の衝撃」を受け、理念的ネイションステイトモデルを目指したところでは、逆に民族による民族国家の確立を求め、その後国民国家へと向かうパターンをとる。ここに中国革命の民族性の説明と中華民族論の危うさがある。「近代化論的同化主義の失敗」とまではいわないものの、台湾という傷を中華人民共和国が持つ限り革命はいまだ「未完の民族国家形成」であり、自由と平等の国民国家への道には立ち至らないのである。にもかかわらず、世界は近代国家モデルの次の段階に進む可能性がある。ここで中国の伝統的側面が浮かび上がらざるを得ない。

そもそも近代国家はネイションステイトの側面と同時に領域的主権国家という顔も持つ。ここで問題になるのが属地的領域性である。アウグストゥス帝はその遺言においてこう言ったという。「よろしく帝国の版図は、自然が永遠の防壁、国境が劃しているかに見える限界内にこれをとどむべし」と。これは伝承としてもきわめて示唆的である。しかしその後領域性は強調されることなく、蛮族の侵入に際して不明確なものへと戻ってゆき、カール5世帝の不明確な「ドイツ人の神聖ローマ帝国」という呼称において普遍的帝国理念とそのローカルな呼称の矛盾を通じ、ようやく「17cの全般的危機」のさなかウェストファリア体制によって再び領域性は確立される。この変遷を追うだけで充分に、近代国家の領域性が歴史特殊的なものであるかがわかる。

中国人の歴史的な重層的アイデンティティは山本信人*14によれば、多元的重層的であるどころか浮遊的、越境的であり、華人のあり方自体が、それぞれの居住する社会とそこにおける歴史的・法的位置づけに左右され、かつ華人の存在そのものも顕在化したり消滅したりするものだという。中国アイデンティティの二類型の「保国」と「中国文明への自己同一化」は現況を分析するのに有用である。

3.3. 社会意識

3.3.1. 伝統地帯農村からの市民創出の可能性

ウィットフォーゲルの「オリエンタル・デスポティズム」は、水力社会の庶民の傾向として、権力への忌避を指摘する。帝政中国の権力は、課税、賦役、裁判の分野で、「チェック」をうけないため、権力が、いつ、どのような形で、庶民にかかわってくるかわからない。その予測不可能性のリスクをとることをさけるために、「思慮あるものは庶民に政府と不必要な接触を避けるよう教える」という。まさに「公共性」の欠如という指摘である*15

公共性が担われるとしたら、本来は都市からであるはずである。しかし中共は、制度的民主化の初歩を農村に置いたかに見える。村民自治である。これは共産主義革命が、農村から始まりマルクス主義を骨抜きにしたことと併せて、中国的な「民主」の展開とみることもできる。1950年代後半の合作社運動が人民公社を経て結局小農に戻っていったことは、「農民戦争」的「革命性」と「小農」的保守性の二重性をあらわすともいえ、同時にウォーラーステインの「反システム」性も併せ持っているといえよう*16

1980年代以降、農村社会関係が大きく変化し、各農家は自分だけの生活を営み、家庭を中心とした農業あるいは副業を行うようになった。政府と農民との関係は税金徴収者と税金納付者のような関係になり、生産力の向上に伴って「温飽問題」を解決した農村では新勢力が台頭し、一方共産党政府の基層組織の支配能力は次第に低下した。このような社会関係の変化の中で、村民自治が政府により提案され農村で広がった。民主主義的な政治方式として、それが中国農村で実行されるということは、一種の西洋思想の中国への移植であると言えよう。しかし、「中華人民共和国村民委員会組織法」第三条に表されるように、中国政府が村民自治に特定的な権利を与えないことは、完全な村民自治が出来ると思っていない、あるいは完全な村民自治をさせたくないことを意味する。共産党政権がもつこのジレンマの原因は、中国都市ではなかなか進展しない民主主義的な政治改革が農村で先に行われることにある。

村民自治の主な対象は、土地に残った農民或いはまだ離れられない農民となる。しかし、こうした農民は平等の契約社会の生活をしておらず、法律で自分の利益を守ることをも考えられない。彼らが自分の境遇を変えようとしたら、自分の能力と個人の関係にたよるのみで、「差序格局」に従って、誰一人として集団の力を利用せず、また集団を信じようとはしない。このような極自然の意識は、彼らの習慣から出てきたものであろう。村の閉鎖的な空間は依然として、村民に物質と精神両方の自給自足を提供し、村民は村を自分の「自由」な土地と考え、村での生活がいつまでも続けられる。

郷鎮は現実上の村の支配者であり、彼らは農民が納めた税金で生活し、農民に対する権力者となっている。郷幹部の腐敗者は、自分の権力を利用して絶えず農民の利害を侵害し、農民は彼らからの圧力を村の生活の中で解消していく。人口の70%を占める農民は、実は一人しかいないかのように完全に分散しているが、これは古くから歴史が中国農民に付与した性格であろう。郷鎮に民主主義的な政治形態が形成されていない場合、村での自治の最も理想的状態は、自己完結の形にならざるをえない。このような社会関係で生活する村民の自治とは、村における政治の自給自足を与えることになる。その場合でも郷鎮の共産党政権との関係は依然としての税金徴収者と税金納付者の関係であり、村長は民意を代表する政府の集金機械となる。そして、村民の完全な自治は、反政府の自治団体になる可能性が十分ある。それは、多くの村民が基層政府に対して完全に抵抗的態度を持っているからであり、このような現実は共産党政府にも、村民にも望ましくない結果を導くしかない。

したがって、都市、郷鎮の政治形態を変えない限り、村民自治は正常に発展することが出来ない。現在の社会現実の下では、民主主義といわれる村民自治は中国農村で民主主義を生むことはないように思われる。

2000年12月26日の「日本経済新聞」によると中共が、郷鎮レヴェルの政府解消に乗り出したという。これによってたしかに農村人民への法に基づかない無理な要求や、共産党による恣意的な収奪は減り、行政費用も減るだろう。しかしながら、一方できわめて下層レヴェルまで初めて掌握しえた政治権力としての共産党の低落も象徴していると言えないだろうか。つまり王朝体制の官僚制権力が県レヴェルまでしか及ばなかった事例と等しいのではないか。そして中央が地方指導者を選出し派遣するというシステム(これ自体が王朝時代を彷彿とさせるものがある)が省レヴェルまでしか徹底しないなら、伝統的な中央対地方の枠組みが再現したと言えないだろうか。伝統的な官僚制の復活をそこにみることができないだろうか。しかし一歩の新しい展開を記したことはたしかであろう。

王朝の滅亡によって「天下」は死んだ。「修身斉家治国平天下」も不可能となった。この中でいかにして「公正」な秩序を構築できるのだろうか。華土・華民も消滅し、人民共和国人民から人民共和国民への変容がはじまるのであろうか。

4. インターネットという空間

4.1. 公共圏とインターネット

インターネットはデジタル技術である。世界中のコンピュータをつなぎ合わせたネットワークをさらにつないだものと理解するのが妥当である。このデジタルの網のなかでは、論理的二進法による情報送達と十六進法による処理が行われているのだ。ここにラテン文字の普遍性が生じていることに注意したい。インターネットは1960年以降の人類の発明物の中で、最も大きなものの一つである。ラジオの普及が、瞬時に情報を与えてくれるものとすれば、インターネットは瞬時に情報を共有することができるツールである。ラジオやテレビがまさにマスメディアであり、1対nの伝達を可能為らしめたのに対し、インターネットはn対nである個々人同士のコミュニケーションを人類史上嘗て無いレヴェルまで引き上げることを可能にした。

インターネットがコミュニケーションを可能にしたことは、そこに新しいタイプの社会への道を開いたということである。だが、そこには従来とは異なった、さまざまな問題点が存在する。人間が一定の社会を形成、維持するということは、その統合のために、何らかの規範が存在することを示す。その規範は最も適応が厳密な法、それよりも適応は緩やかな慣習などが社会システムを維持するために働いている。もともと既存のシステムを維持するものであるから、システムが変動する際には、保守的な役割を果たす。本来であれば、それは十分な時間を掛けられ、成立するものであるが、インターネットは短い歴史のため、未だに全ての成員が合意するような規範は作られていない。そしてその規範のもととなる「公準」に果たして「市民的理念」が存在するのであろうか。

インターネット上でのコミュニケーションの特徴はn対nのコミュニケーションが可能であること、お互いの実社会での立場、身分関係を無視したといったものがあるが、これは従来の公共圏論で考えられてきたコミュニケーションの特徴とも類似する。

さて、内田はこのような「市民的公共圏」の再建の試みとして「ネットワーク公共圏」の視点を打ち出した。インターネットはマスメディアとは対照的に1対1、または1対nのコミュニケーションが可能であり、個人同士のパーソナルのコミュニケーションを可能にするとともに、個人が不特定多数の人々に自分の考えを訴えることも可能であるということである。この特性をハーバーマスのいう文芸的公共圏の基準に照らしあわせて列挙すると以下の通りになる。

  1. 「社会的地位を度外視」=「社会的属性にとらわれない」
  2. 「通用していた領域の問題化」=「既存の権威にこだわらない」
  3. 「万人の参加可能性」=「アクセスの開放」

またインターネットの自律性やその情報発信におけるコストの低さなどを取り上げて、マスメディアのように政治・経済権力に影響を受けることは少ないとしている。すなわち、ネットワーク公共圏は「マスメディアを相対化しうる市民独自の有力な」コミュニケーション・ルートをもつのである。次に、公共圏に必要なのは「議論する公衆」であり、その公衆に当たるのが「ネティズン」であると取り上げている*17。公文によるとネティズンとは「インターネット上の市民(netとcitizenの組み合わせでnetizen)」という意味である。彼ら電子ネットワークを縦横無尽に使いこなし、ネットワークを用いての情報発信に関して能動的である。また、ネットワークや、それがもたらす仮想社会の自律性を重視しており、政治・経済権力による管理・統制には断固として抵抗する人々といえる*18

ネティズンがネットワーク公共圏の公衆として注目される理由は、ネティズンが能動性と自律性を兼ね備えているからであると述べられている。しかしながら、そのネティズン論の落とし穴を内田は指摘している。

  1. コンピュータの扱いやすさ
  2. メディアリテラシーの問題
  3. ネットワーク公共圏の「議論する公衆」という自覚を持てるか

1.に関しては従来からのコンピュータの操作が難しいという点を論じている。が、これに関しては今後のコンピュータ重視の教育において発展的に解消されうるであろうとしている。2.におけるメディアリテラシーとは「市民がメディアにアクセスし、分析し、評価し、多様な形態でコミュニケーションを創り出す能力」を指す。かつての市民的公共圏が変容を余儀なくされた理由は、マスメディアが発達するに従って、公衆がメディアに対する批判能力を失っていったからに他ならなく、このメディアリテラシーは再び公衆にメディアへの批判能力を復活させ、彼らがネティズンとしてネットワーク公共圏で活動するためには必須であると指摘する。3.は2.で身につけたメディアリテラシーという「能力」を使用する主体としての自覚を意味する。

さらに、従来のネティズン論が見落としている視点として、内田は公共圏の抱える二律背反性を指摘している。それは当初のインターネットにアクセスする人間はそれなりの経済的余裕とメディアリテラシーをいわば参加資格として所持していたが、この参加資格が有名無実になるにしたがって、様々な人間がネットワーク公共圏に参加するようになり、その結果ネットワーク公共圏の衆愚化(無秩序化)を招くようになるというものである。このような衆愚化に対しては「ネチケット」が提唱され、これを尊重することにより、公共圏の衆愚化を避けつつ、万人に門戸を開放することが出来ると内田は述べている。

4.2. 中国的インターネットの可能性

社会的結びつきにおいて「差序格局」。波紋の広がりの距離が地面と無関係になってゆくであろうことは、想像に難くない。ひととひとの関わりにおいて、集団をどこまで認識するかという中国の伝統の部分である。費孝通の差序格局論である。単一なものへの帰属ではなく、個々人のしかるべき役割の別の、機能や目的に応じて特定した関係を優先していく融通無碍さは、「公共圏」の議論とどれだけかさなりあえるのか。そして一方で「関係」があるならばそれを逃れる手だても当然あるはずである。これが本籍回避をはじめとする地元から出る発想である。自己の自発性を留保しつつ、関係を利用してゆく伝統がここにあり、集団に埋没しない。ここに伝統における「移動の文化」が生まれてくる余地がある。またある種の「器具」が人に対するアイデンティティを付与することが歴史上多い。ここに携帯電話はその可能性を秘めている。

あらたにあらわれるかもしれない電子ネットワークの張り巡らされた世界で、人々の生活空間や認識空間は交通革命に継いで格段に拡大し、生活圏は大きくなる。属地的領域性は廃棄され、重層的アイデンティティを許容した政治単位の出現がありえないと言えるだろうか? そしてその重層的アイデンティティが電子ネットワーク上で、どのように作用するか。あるいはそこでどのような政治的言説空間が生まれうるのだろうか。ここに「公共圏」の概念を導入する余地が生まれる。

しかしながら中国政府はいくらでも抜け道があるものの、条例によってすくなくともISP(インターネット接続業者)への加盟にともなって警察への届出もしなければならないことになっている。また、ネティズン的主張をする人々は、中国のこのような規制をこそ敵と見て、Web上での中国政府サイトへのクラッキングを呼びかけ、逆に中国のハッカーたちはこれを祖国への挑戦と見るといったいささか場を変えたアメリカ対中国の構図も築かれつつある。このような政治の干渉あるいはネット上の政治そのものを考えるならば、インターネットの未来像も一概に無国家的とは言い難い。

5. 全体秩序と個人

5.1. 再び「公」と「私」

全体秩序と個人の結びつきの相互関係が中国における「社会制度」であったといえるであろう。それは、一貫して生き延びてきた「伝統」であり、共産党ですら例外ではない。しかし天下の秩序を想定した「全体秩序」は天下の死によって、国家と結合され、関係のみが生き延びた。見えない「社会制度」が法ではなく不可視のものとされてきて生きてきたのである。制度としての民主主義は現実化がありえる。しかしこの個人と秩序の結びつきが「公正」に「自由」に「平等」に関係づけられ、すなわち市民社会を形成しない限り、本来の民主化にはほど遠いだろう。前述したように中国は「公」と「私」が並立する社会ではない。しかしヨーロッパはそのような公共圏を持つ社会を想定し、ネティズンもそのような人々が想定されているのである。中国人は、「私」を網として使うだろう。「公」と「私」が並立する社会の実現ではなく「公」にとりこまれた「私」から「公」を食い破る「私」を実現させる不断の努力が、中国庶民の発想ではないのか。であるとしたら、ネット上では、彼/彼女らは、果たしてネティズンたりうるだろうか。公を食い破りきれないとき、民族主義的な「公」に包まれ、中台危機や、駐ユーゴ大使館誤爆の際のような極端な民族主義的ハッカーと化し、ネティズン的発想を持った人々を逆に驚かせてしまうのではないだろうか。

5.2. 時代の反思想性

イェーリンクは『権利のための闘争』で、自分の権利を主張し、そのために自分の選択の責任を自分でとる、これが民主の根幹であると言っている*19。この発想は、いまだ中国には適用されていない。中国は欧米列強による第一の危難の波、日本による第二の危難の波、共産主義による第三の危難の波を体験した。人々は、第二の波と第三の波の間には侵略の時代が終わり、新中国建設の時代が来たと将来の新中国建設の夢を見た。「新民主主義革命」の旗の下、夢見た人々は反右派、大躍進、文革の波に飲み込まれていったのである。

思想の変革こそがゆたかな中国と理にかなった「公正」な社会を作るはずだった。ところが、思想は生きることさえ保障せず、むしろ迫害した。これほど理不尽なことがあるであろうか。思想疲れを起こしかねない状況である。経済再生はリアリズムとプラグマティズムの功績であった。全体秩序の安寧を鄧小平は優先し、成功させた。そしてリアリズムと同時に全体秩序の安定というプログラム=伝統は説得力を持ったのだ。共産党への消極的同意と思想的転換を拒否ないし受け入れへの不信感を持ったのではないか。

イェーリング的市民社会を望むなら「心からの民主化」程度の発想の転換が必要であろう。それができないなら、この「民主」とは西欧型民主であった「中国的民主」があるとしてそれを目指さなければならない。世界中で西欧型民主主義とそうでない民主主義をめぐる議論がある。たとえばイスラーム的民主主義はあるか、といったものである。これを同様に言えば儒教型天下的民主主義はあるかということになろうか。二項対立的に考えるのは非生産的ではある。しかし少なくとも人と人とのつながり以前に、「解放」すべき旧弊は多いのではないかと思えるかもしれない。しかし人と人とのつながりが社会の規範を構成する以上、儒教のマイナス面をあげつらって、それのみを否定することはできなのである。

そして一方、西欧型民主主義は自由主義と民主主義の結合系で結局揺れ動かざるを得ない。18世紀においては両端の発想であり、現在はある程度の点で結合して運営していっている。私たちが中国への民主化、といったとききわめて原理的な民主主義像を思い浮かべてしまうが、ヨーロッパに置いてもきわめて幅の大きい代物である以上、中国的な社会のあり方から言って、民衆自身が自分の選択の責任を自分でとる、という原理そのものの存在が幸福であると感じるかは別問題であろう。心からの民主化か幸福か。この問いはやはり非生産的であろう。しかし現実に社会は安定を求めている。いまだに「生きるための闘争」は終わっていないのだ。終わらないのにイデオロギーを吹き込んでも中国人民は耳を傾けないに違いない。現実的でないからだ。よって「生きるための闘争」が終わったとき、「権利のための闘争」が行われるかどうかが焦点となろう。

5.3. 国家と社会の「共棲」

人民共和国の50年は社会と国家の「共棲」を生み出した。とすれば社会の国家に対する叛乱はありえるのだろうか、と菱田雅晴は問う。その可能性は次のかたちのいずれかとなるが、可能性は低いという*20

  1. 大衆による異議申し立て
  2. 新貧困層における異議申し立て運動
  3. 少数民族による異議申し立て運動
  4. 農民による大衆叛乱
  5. 新旧の宗教勢力による叛乱現象

この場合、1.は中間層の台頭とその政治的主張が想定されている。しかしこれは中間層そのものが改革開放の受益者なので正当性は薄く、2.はまた「生きるための」温情を権力に要請するので、むしろ1.とのあいだに対立関係が生じ、権力とは微温的関係に入る可能性がある。そして農民もまた共産党によって分配された田によって最低限食べていける。このように検討するならば、社会の叛乱は妥当とは言えないとするのである。ここに一種の消極的同意による正当性が共産党政権に発生しているようにみえるのである。

5.4. 知的資産権から権利へ

インターネットを検討する場合、避けて通れないのが、「土地の所有」と同時に重要なのは「知的資産」の所有権である。先進国とは異なり、きわめて近接した移行の問題でなり、また中国には既存法体系を援用するだけの法体系の蓄積がなされていないため、きわめて未整備なものができるか、あるいは突発的に完成された法体系の元、なし崩し的に所有権の議論に発達する可能性もある。段階的発展ではなかろうが、知的資産の所有権は土地の所有権が前提とはなる以上、問題とならざるを得ないであろう。しかし現況、共産党がこれを「秩序」への安定財とみなすかがポイントとなるものの、契約法さえ未整備な状況の中では難しいというが、結局このような決定に大きく社会像が規制される。

6. 展望とまとめ

民主化の実現があるとすれば、改革開放以降に生まれ過ごした都市部中間層の人々からではないだろうか。台頭した「恩」は中共にはないのである。中共2050年プランは違った形で実現してゆくとも言える。現在、共産党は単なる権威主義開発独裁だがそれ以上にある程度の正当性も持っているのである。

1930年代、「民主と独裁」に関する論争がかなり広範に、かなり熱を帯びて展開された。当時、蒋介石独裁体制が着実に築き上げられていく中、その独走に歯止めをかけようとして、胡適らが独裁体制の廃止と民主による政治体制の再構築を目指して提唱したのがきっかけである。

この論争は結局最終的な決着はつかなかったが、始終「独裁派」有利で進められた。1931年九一八事件以来、日に日に深まる国家と民族の滅亡の危機、そういった状況において、中国は、混乱を招くであろう民主的方法の導入ではなく、一人または複数人による独裁によって国家的・民族的統一を図ってこの難局に対処する、方法を選んだ。現実的であり「救亡」への最善の道であると当時の大多数の論者は考えたのである。

現在、民主化といったときに想起されるのは、自由民主主義的な西欧のものである。確かに誰の目から見ても中国の現行体制が西洋式「民主」とはかけ離れているものであるし、共産党政府がいくら「民主」といっても、せいぜい支配者の空理としか考えられない。政府が民主を実行していると中国人は考えているのだろうか。どのように民主を理解しても現在の中国は共産党による一党「独裁」である。

しかし、その共産党がそれなりの正当性を得ている。結局インターネットなどの新しいメディアも中国そのものの社会根底からある人と人とのつながりとその上に想起される振り子的秩序の民主化をしない限り、中国の民主化には直接つながることはないのではないだろうか。

「安定」があって初めて経済発展が可能であるし、それによって生活も豊かになる、当然のことである。権利あっての公正ではないのだ。中国はアメリカモデルでもロシア・東欧モデルでもなく、東アジアモデルでもなく、中国モデル復古でもなく、新中国モデルを求めたとき、また一つの公準としての公正像が浮かび、あらたな秩序観構築を行うであろう。

脚注

  • 1 国分良成『中華人民共和国』筑摩書房(ちくま新書),1999,pp.101-109, 天児慧『中華人民共和国史』岩波書店(岩波新書),1999,pp.ii-iv, 小島朋之『中国現代史』中央公論新社,1999,pp.2-27 ↑*1
  • 2 足立啓二『専制国家史論-中国史から世界史へ』柏書房,1998 ↑*2
  • 3 星野英一『民法のすすめ』岩波書店(岩波新書),1999,p.102 ↑*3
  • 4 ユルゲン・ハーバーマス(細谷貞雄・山田正行訳『公共性の構造転換』,未来社,1994 ↑*4
  • 5 ハンナ・アーレント(志水速雄訳『人間の条件』,筑摩書房,1994 ↑*5
  • 6 花田達朗『公共圏という名の社会空間』木鐸社,1996, p.29,30 ↑*6
  • 7 内田隆三編『イメージのなかの社会』(情報社会の文化2)東京大学出版会,1998 ↑*7
  • 8 溝口雄三『方法としての中国』東京大学出版会,1989, 溝口雄三『中国の公と私』研文出版(研文選書),1995, 溝口雄三・伊東貴之・村田雄二郎『中国という視座』(これからの世界史4)平凡社,1995 ↑*8
  • 9 吉沢南『個と共同性-アジアの社会主義』(新しい世界史9)東京大学出版会, 1987 ↑*9
  • 10 佐藤慎一「近代中国の体制構想-専制の問題を中心に」溝口雄三ほか編『近代化像』(アジアから考える5)東京大学出版会,1995 ↑*10
  • 11 安井三吉「中国国民政府論-未完の訓政」木畑洋一編『岩波講座 世界歴史24 解放の光と影』岩波書店,1998 ↑*11
  • 12 岸本美緒・イスラーム地域研究第5班C 比較史の可能性研究会 第3回発表レジュメより ↑*12
  • 13 鈴木董『オスマン帝国の崩壊』筑摩書房(ちくま新書),2000 ↑*13
  • 14 山本信人「国民国家の相対化へむけて」濱下武志・辛島昇編『地域史とは何か』(地域の世界史1)山川出版社,1997 ↑*14
  • 15 カール・A・ウィットフォーゲル(湯浅赳夫訳)『オリエンタル・デスポティズム-専制官僚国家の生成と崩壊』新評論,1991,p.203 ↑*15
  • 16 西村成雄「民衆運動(アジアの)」『歴史学事典4 民衆と変革』弘文堂,1996 ↑*16
  • 17 内田前掲書 ↑*17
  • 18 公文俊平編著『ネティズンの時代』NTT出版,1996 ↑*18
  • 19 イェーリング(村上淳一役)『権利のための闘争』岩波書店(岩波文庫),1982 ↑*19
  • 20 菱田雅晴「中国社会変動の構図」菱田雅晴編『現代中国の構造変動5 社会-国家との共棲関係』東京大学出版会,2000,pp.319-321 ↑*20

「中国民主化のポテンシャルと伝統」への2件のフィードバック


  1. 「本文書は、廃棄済みです。甚だしい認識不足が非常に多いので、閲覧はおすすめしません。」とありますが、どこがどう認識が甚だしいか教えて下さい。当方は初心者なのでよくわかりません。


  2. 「認識不足が甚だしい」です。念のため。全体に非常に大きなテーマを扱っているのに対し、論点を非常に限ってしまっていることがあります。また参照すべき文献や先行研究が多いだろうに、適当に都合良くひろってきているという扱い方も問題があるでしょう。すでに時事的にも古くなっています。中国研究からは遠ざかっているので現在の研究動向を知る立場にはありませんが、新しめの信頼できそうな概説書を参考になさるのがよろしいかと思います。

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