ブックレポート 大塚和夫『イスラーム的―世界化時代の中で』

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本稿は大塚和夫『イスラーム的―世界化時代の中で』日本放送出版協会,2000を読んでのエッセイである。本書は、イスラームの基礎知識を第一部で説明した後、イスラーム復興運動やイスラーム主義などの潮流が「現代」という世界とどのような係わり合いをもっているのかを人類学の立場から分析することが主題である。

私がこれまで読んできたイスラーム世界に関わる文章は、歴史学や政治学の立場から書かれたものが多かった。また、私が「読む」という時もそのような立場から読むのが通常の場合であった。たとえば本書の著者大塚和夫氏の本『テクストのマフディズム』でも、人類学の方法を使って得られた結論の部分だけを、上滑りして読んでいたような気がする。

さらに、実は私自身、近代とイスラーム復興の関わりというテーマ自体の重要性はそれなりには理解しているつもりであっても、ある意味見慣れた議論となっており、「原理主義」論などは少々食傷気味になっている。そのため「近代とイスラーム復興」というテーマを真正面から考えたくない、という欲求も働いているのである。そこで、今回はスーダンのマフディー運動とイスラーム主義とのからみから考えたい。

社会人類学のキーワードの一つが多声性であるが、本書ではイスラーム復興に関わるムスリム/ムスリマの多声性をどのように叙述しようとしているのであろうか。

イスラーム世界とかイスラームという言葉で、ムスリム/ムスリマの考え方や、生活の規範をひとくくりすることは、当然できない。正典的なイスラームもあれば、土着のイスラームもある。もちろん前者がウラマー中心、後者がスーフィズム中心という意味づけが与えられるに違いない。

ところが本書ではさらに、こういった一つの構図だけに還元することにも、きわめて批判的である。イスラーム復興を考える人々でもその求める「真正のイスラーム」には微妙な差異があるということは、フィールドワークによって得られる、一つの声として聞かねばならないが、おそらく事実である。そのように考えると、本書における「イスラーム復興」と「イスラーム主義」の厳格な峻別も、あるいは硬すぎるのかもしれない。

「イスラーム主義」を特徴づけるのは、イスラームをオブジェクト化したうえで、あえてイスラームを政治的イデオロギーとして選択した、という点に求めるのは、非常に説得力がある。が、同時に非常に図式的である。そのように考えねば理解をするのに多言を要するとはいえ、である。本書では、マフディズムやワッハーブ派の現在を用いて、それを説明している。そこで問題となるのは、結局「近代に対する抵抗」であったマフディズムやワッハーブ派の起こりが、なぜ現在も続くのか、ということであろう。それはマフディー運動の意味を考えるとより明瞭になるのではないか。

19世紀スーダンでは、エジプトによって押し進められた近代化が社会変動を引き起こした。植民地支配によって、スーダンは領域的統一を得、運輸・通信が発達した。しかしそのようなときスーダンの民衆にとって、エジプトのムハンマド・アリー朝も宗主国オスマン帝国も高度の収奪を行うので、ヨーロッパ帝国主義者と変わりなかった。イスラームの威を借りるだけ悪質であった。そこで民衆レヴェルから生まれ、「今のイスラームは堕落している。真のイスラームとは何か?」という問いかけ=思想の下、移動商人達の経済力をバックボーンとし、エジプトが用意した統一的スーダンの器にのって、現スーダン一円に起こった「近代への抵抗」がマフディー運動であり、民族解放・対帝国主義の戦いとしての自覚さえ得た。しかしながらそれもまた近代の産物であることも確かであった、ということになる。山内昌之が指摘するように、スーダンでゴードン将軍が奴隷解放に尽くした人道的な役割と、マフディー運動が奴隷商人から支持を得ていたといった文明と植民地主義のパラドックスくらいは指摘できる。

エジプトの強権的支配下で、移動商人(ジャッラーバ)は、領域統一と交通・通信の発展を背景に成長し、ネットワークを作り上げ、私兵(バーズィンキル)を蓄えた。ジャッラーバは、マフディー運動の指導的役割を果たした。それゆえにマフディー運動は教団の乱立状態を克服し、より普遍的な教団たることができたのである。マフディー運動は、カーフィル(不信仰者)= 為政者= 英・エジプト・オスマン朝への戦いであった。逆に言えば、ムスリムでなくてもマフディーに従えば同志であった。ここでマフディー運動は「国家」を生みだし、「国民」を創出したのである。

そして迎えた現在、マフディズムは形をかえて存続しているのである。イスラーム主義といえるマフディズム、そしておそらくはワッハーブ運動も、おそらくは19世紀から20世紀初においては、ナショナリズムの色合いをも併せ持っていたと考えるべきである。ところが21世紀初において、マフディズムやワッハーブ運動から、それなりの影響を受けた「イスラーム主義者」はそのような傾向を、ウンマの破壊として捉えるであろう。その変質はどこにあったのか。そして現代以前におけるイスラーム主義に関わるナショナリズムの色合いを彼/彼女らはどのように評価するのか。その点は、取り上げて論じるべきではなかろうか。20世紀中でのアラブ=ナショナリズムの敗北の一点に、その変質を求めるだけでは、足りないだろう。さらに本書でも指摘されるとおり、現代のイスラーム主義は、ウンマについて主張すればするほど、国境の内側の敵をより憎悪するというパラドックスが生じている。それこそがまさに「世界化」の中での「イスラーム復興」の意味を解き明かすのではないだろうか。

アーネスト・ゲルナーはナショナリズムを「政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する政治的原理」と規定し、そこでの「民族」は「文化」の共有と「意志」によってとりまとめられる集団であるとする。そして産業社会の発達とともに社会における流動性・相互互換性が高まることで、均質性、永続性が必要とされ、そこでは読み書き能力を核とする高文化が重要な役割を果たす、という議論を展開した。イスラーム主義が嫌うナショナリズムである。ところが近代のマフディー運動の発端は、このようなナショナリズムと折衷して生み出された。にもかかわらず現代においては、このようなナショナリズムの対極に位置せざるをえない。その変動はどのようにして日常レヴェルから生まれてくるのか、という問い、そしてゲルナーのこの定義をいかに乗り越えるのか、という問いは、重要になるような気がする。

参考文献

  • 大塚和夫『テクストのマフディズム-スーダンの『土着主義運動』とその展開』東京大学出版会,1995
  • 大塚和夫「スーダンの「部族」と「民族」」『イスラーム世界とアフリカ』(岩波講座世界歴史21)岩波書店,1998
  • 片倉もとこ『イスラームの日常世界』岩波書店(岩波新書),1992
  • 栗田禎子「マフディー運動の再検討―一九世紀エジプト領スーダンにおける「奴隷交易問題」の分析を通じて」『アジア・アフリカ言語研究』36号,1998
  • 栗田禎子「「聖戦(ジハード)と近代国家建設-スーダンのマフディー運動の性格規定をめぐって」『歴史評論』452号,1987
  • 栗田禎子「スーダンのマフディー運動における「正統性」」小谷汪之ほか編『権威と権力』岩波書店,1990
  • アーネスト・ゲルナー(加藤節監訳)「民族とナショナリズム」岩波書店、2000 年
  • C・スミス(中村廣治郎訳)『現代イスラムの歴史(上)』中央公論社(中公文庫)、1998
  • 山内昌之『近代イスラームの挑戦~世界の歴史20』中央公論社,1996

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