عدل公正にかかわる問題を探すために(2)~方法論の探索

はじめに

前回の発表以来、コーランと井筒俊彦『意味の構造』を読んだ。これは何のためかというと、すでに前回に指摘をいただいたことだが、問題が不明確であるという点を考慮した結果である。

つまり、なぜعدل(ʻadl)についてなのか、という問いに対して、明確な回答が与えられないのである。そこで必要な作業は、史料からこのعدلという語が、イスラーム世界の政治思想において根本的に重要な概念であるということを確かめることである。史料を読んでいてあちこちに出てきて使われているが、なんだか使われ方がよくわからない、なんだこれ?というのが妥当な問題の立て方であろう。しかしいまだ私はアラビア語を扱う能力がないため、きわめて困難である。これを解決するために前回のレジュメの第2節で示した点をヒントとして、まずコーランから入ることにした。

イスラームにおける政治ないし統治の目的は、現世における「神の国」を目指すこと、すなわち神の正義の実現である[小杉1995]。したがってعدلがイスラーム社会における根本的不改常典であるコーランに示されるからには、عدلの概念は統治者の倫理の問題と深く関わらざるをえない[嶋本1981]。(前回レジュメより引用)

要は「なぜ عدلか?」ではなく「عدلとは何ぞや?」から入る。なぜ、はとりあえず棚上げし、上記に依ることとして、具体的に探るうちに回帰できるであろうということである。今回は方法論としてコンテクスト主義の説明をした上で、井筒俊彦の『意味の構造』における方法論を説明し、『意味の構造』から読み取れる「コーラン」におけるعدلの意味を要約することが目的である。

1.テクストtext主義とコンテクストcontext主義

私が考えるのはعدلという語の政治思想史的研究であるが、その方法論はきわめて多様である。ここでスキナーにしたがって2つを取り上げて考える。

政治思想史研究の上で、そこにある史料をいかように読み解くか、ということで重要な問題が、テクスト主義かコンテクスト主義かであり、前者を合理的再構成論、後者を歴史的再構成論と言い換えることができる。テクスト主義はある史料の中から時間や空間を超越した、すなわち普遍的真理を読み取ろうとし、すべての真理はテクストにあると考える。一方で、コンテクスト主義は、テクストのうえにある文脈を重視する。

たとえば‘This wine is delicious.’という文があったとする。これをテクスト的に読むと「このワインはおいしい」というのは究極的真理であり、それ以上のものではない。ところが、ディナーに呼ばれた客が主人に向かってこの言葉を吐いたというコンテクストがあるとすると、この言葉の意味は「もう一杯くれ」と読めないこともない、ということになる。

では、最も重要なコンテクストとはなにか?それは言語慣習と言語操作である

言語慣習とは、ある時代において行われた言葉の意味づけである。言葉の意味は同じ言葉であっても時代時代によって異なるということを意識しなくてはならない。ある時代の正義とある時代の正義は異なっていることが多い。同様にعدلも時代によって異なっていた可能性もあるし、同じであった可能性もある。言語慣習は対象とする時代に書かれたありとあらゆる文献を読むことで蓋然的に知りうるレヴェルに達することができる可能性がある。

言語操作とは、ある物事をさす言葉を意図的に変化させることである。たとえば商品というものにたいしてgoodsという言葉をあて価値観を変化させることなどである。この言語操作を発見することができれば、概念史的には意味が大きい。思想家とはある意味言語操作を成功させることで成功するとも言える。

とにかく思想史としての方法論をとれば必然的に文献の山を読むということである。どうする?

2.『意味の構造』の方法論

では次に『意味の構造』の方法論について述べる。これを「意味論的分析」と著者は呼んでいる。

『意味の構造』では、コーランにおける道徳的観念の意味を原語で、かつ当時の使い方をふまえて解明することを目的としている。そこではある語句を他言語やほかの時代の意味にとらわれないようにするために、コーランにおける語句を、コーラン自体をレファレンスとして説明しようというものである。つまり前後の複数のテクストを用いて間テクスト的に読むのではなく、単一テクストとして読む。

このように書くと、前述のコンテクスト主義に矛盾するようであるが、本書で用いられるのは、単一テクストにおけるコンテクスト主義的な読み方である。すべての観念はをコーラン自体に語らせることによって、語句のコーランにおける意味は明瞭となるのである。

さて。道徳的観念を持つ語には二つのレヴェルがあるとされる。第一レヴェルは記述的であり、ある物事をはっきりと指し示すものである。第二レヴェルは価値判断的で、きわめて硬い核を持つ善悪の基準である。著者によればコーランの段階ではまだ第二レヴェルの語句は多くないという。そのように考えると後世イスラーム法学において発達する価値判断的語句の基準がいかに多くコーランによることとなるかを知ることができよう。後述するが、筆者はコーランにおける価値判断の基準は信仰にあり、きわめて二元論的に信仰不信仰に淵源するといっている。

3.コーランにおけるعدلの意味

以下、『意味の構造』によって、コーランでのعدلの意味を要約してみる。عدلについては第11章「善と悪」に集中的に示される。前節で述べた第二レヴェルの語に近い語として扱われているように見える。ここでは『意味の構造』での相互の連関を見ながら、コーランの引用を貼り付けてعدلの意味を考えてゆく。なお、以下のコーランの引用はすべて『意味の構造』による。節番号は、フリューゲル版/カイロ版の順番であり、訳は井筒訳コーランによる。また全ての強調は引用者:私による。

『意味の構造』においてはعدلقسط (qisṭ)の同義語として示される(p.277,278)

信徒の者、お互い同士、一定の期限付きで貸借関係を結ぶ場合には、それを書面にしておくのだぞ。誰か書式を心得たものに双方の間に入って公正に(bi al-ʻadl)書いて貰うこと。……貸借が小さくとも大きくとも、はっきり期限をつけて書面にしておくことを面倒くさがってはいけない。そうする方がアッラーの御目から見てもより正しい(aqsaṭ)(2:283)

もし汝ら自分だけでは孤児に公正にしてやれ(tuqsiṭū)そうもないと思ったら、誰か気に入った女をめとるがよい、二人なり、三人なり,四人なり。だがもしつまが多くては公平にすることが(taʻdilū)できないようならば一人だけにしておくか、さもなくばお前たちの女奴隷だけで我慢しておけ。そのほうが不公平になる心配が少なくてすむ。(4:3)

もし信者同士が二派に分かれて喧嘩をはじめたら、お前たちが仲裁してやるよう。それでもまだいずれか一方が相手に喧嘩を売るようなら仕方がない、徹底的にその悪い方を攻めて、アッラーの御命(みこと)にたち還らせるよう。で、もし彼らがたち還ったなら、改めて双方の間を、正義(ʻadl)を旨として仲裁してやるがよい。どこまでも公正を旨とせよ(aqsiṭū)。アッラーは公正な人々(muqsiṭūn)を愛し給う。(49:9)

たしかに同様の意味で用いていると思われる。では、قسطはどのように示されるかというと次のようになる。

汝ら、信徒の者、正々堂々とアッラーの前に立ち、qisṭをもって証言せよ。敵を憎むあまり公正に振舞わ(taʻdilū)ないようなことがあってはならぬ。常に公正であれ(iʻdilū)。それこそ真の敬神に近い。アッラーを懼れまつれ。アッラーは汝らの所業一切に通暁し給う。(5:11/8)

信徒の者よ、qisṭをもってアッラーの前に証言せよ。たとえその証言が自分自身や両親や、或いは近親の者に不利であろうとも。また相手が金持ちであろうと貧乏であろうと。(4:134/135)

つまりどういうことか?というとقسطとは、敵を憎むあまりに証言の振舞いを左右しないこと。自分自身や両親や近親に不利であってもその証言をすること、金持ちや貧乏ということに左右されずに証言することである。すなわち、公平さ、正しさを含む様々な場合をさし、代表的な例として、証言する者は自分の個人的な好悪に左右されることなく、全く不偏不党であることである。

よってつまり「公正」に近いということがいえるわけである。そしてそれは真の敬神に近い。蛇足ではあるが、قسطは商売上の公平さや裁判での公正などにかかわることがわかったが、ではその基準は何か。これは私の問題とつながってくる。

もし彼らがお前のところに何か事件の裁きを求めてやって来たら、裁いてやれ。だが、そ知らぬ顔してやってもかまわない。……もし裁くなら、(ただ)しく(bi al-qisṭ)裁いてやるがよい。アッラーは(ただ)しい人間を好み給う。(5:46/42)

どの民族にも使徒が遣わされることになっている。そしていったん使徒がやってくれば,すべて人々の間の問題は公正に(bi al-qisṭ)裁かれ、誰も不当な目に遇う(yuẓlamlūna)ことはない。(10:48/47)

すなわちqisṭをもって裁かれる」が「不当なことẓulmをこうむらない」と同義とされているわけで、両者は反対なのである。さらに以下から次のように導き出せる。

アッラーの下し給うた啓示に拠って裁き事をせぬ者はすべて無信の徒(kāfirūn)であり、……アッラーの啓示に拠って裁き事をなさぬ者、そういう者どもはすべて不義の徒(ẓālimūn)である。(5:48-49/44-45)

つまりقسطظلم(ẓulm)は反対であるのだから、アッラーの啓示に拠って裁きをすることはقسطであるがゆえに、قسطの基礎は啓示である

実はここに現れる不信仰(kāfir)という語は『意味の構造』におけるもっとも重要な語句である。イスラームの道徳は宗教に深く根ざしており、……人の行いがイスラームの主張を推し進めるか或いは妨げるかに特別の注意が向けられた。つまり『コーラン』には信仰と不信仰という人間の道徳的価値に関する二元論が基調として貫かれているのである。

よってعدلとは、ظلمではなく、そうすることによって信仰の徒として生きていけることができるという価値判断を持つ語である。

おわりに

『意味の構造』の日本語訳を参照して日本語でコーランを読むということをした。これは方法論的には大問題であるし、一方でコーラン以外でこれほど精緻な議論を展開した研究はあるだろうか? しかしとりあえずコーランにおけるコーランを生んだ時代のعدلの意味はつかめるように思える。では、次はどの時代、どの地域か?ということが問題になる。

参考文献

  • 井筒俊彦 1992 『意味の構造(井筒俊彦著作集4)』(牧野信也訳),中央公論社
  • 小杉泰 1995 「統治の目的――イスラーム政治史の眺望から現代へ」湯川武編『イスラーム国家の理念と現実』講座イスラーム世界5, 栄光教育文化研究所.
  • コーラン 1957-58 『コーラン』上・中・下(井筒俊彦訳), 岩波文庫, 岩波書店.
  • 嶋本隆光 1981 「イラン立憲革命(1905~1911年)初期におけるウラマーの役割と公正(‘adl)について」『アジア経済』22-6.
  • スキナー, クェンティン 1999 『思想史とはなにか-意味とコンテクスト』(半沢孝麿・加藤節訳)岩波書店.
  • Tyan, E. 1960 ‘adl, The Encyclopedia of Islam, new ed. , Leiden.

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