عدل公正にかかわる問題を探すために(1)

1.

عدل(ʻadl)とは、アラビア語で「正義」「正しい」「まっすぐ」を意味し、宗教、神学、哲学、法学の言葉として頻繁に出現する。عدلな人とは、善の衝動が悪に勝った人であり、よきモラルを持つ人のことをさす。よってعدلという語には宗教的道徳的意味合いがある[嶋田1982][Tyan 1960]。訳語の確定履歴については不明であるが、一般に「公正」と訳されるようである。日本語で公正という場合、justicefairnessなどが交錯したイメージであり、社会的公正、経済的公正などのように使われる。「公」は「正」を形容詞的に修飾している。「公」「おほやけ」というときに観念される漢語としての「公」や日本語としての「おほやけ」との混淆に注意さえすれば、عدلおよび公正ともに、その多義性から人間の社会のあるべき姿を示す用語として比較史的に扱うことも可能にも思える。

2.

イスラームにおける宗教的道徳的用語の社会への作用を考える際に、まず参照すべきはコーランである。عدلはコーラン(以下の章節番号は、井筒訳で用いられるフリューゲル版に従っている)で多用される。たとえば4章143節、16章92節などは、神がعدلと善行とを命じたことが明記されている[コーラン1957-58]。つまりعدلとは、まず第一義的に神の恩寵と正義を示すものであり、人として生きる上での指針であるといえよう。

しかしعدلは、個人としての倫理にとどまらず、社会の秩序にもかかわる。注目されるのは、5章46節、38章27節などである。ここには、統治者の倫理として「人を正しく裁くこと」が記される[コーラン1957-58]。イスラームにおける政治ないし統治の目的は、現世における「神の国」を目指すこと、すなわち神の正義の実現である[小杉1995]。したがって عدلがイスラーム社会における根本的不改常典であるコーランに示されるからには、عدلの概念は統治者の倫理の問題と深く関わらざるをえない[嶋本1981]。おそらくハディースをよりよく参照することで、イスラームにおける統治者の必須の倫理としてعدلがあることが明らかになると考える。

3.

統治という観点から政治の機能を考えると、それは社会の統合が第一義であり、社会の統合に関する結節点がعدلである。国家=社会関係において、統治が端的に示されるのは行政である。社会の秩序理念の第一にはコーランやハディースおよびその解釈からなるシャリーアがあるが、その一方で、行政は世俗実定法であるところの勅令や布令からなるカーヌーンによって運営される。しかし世俗法という言い方から想定されるヨーロッパのカノン法(教会法)のように聖界と俗界の別として考えるものでは当然ない。カーヌーンといえども、イスラーム政治の根本たるシャリーアによる統治に服するものである。これらの国家社会関係については[嶋田1977]。

社会の再生産のための秩序維持機構すなわち統治がいかにして存続できるか、は政治思想上の重大問題である[ブルデュー1991]。その指標が、体制の正統性=倫理的正しさと、正当性=現実的妥当性である[ウェーバー1960-62][大澤1996]。

[アル=マーワルディー 1981-89][イブン・タイミーヤ1991][イブン・ハルドゥーン1979-1987]は、イスラーム政治思想上の古典であり、特にマーワルディーは高次のカリフ論によって現実との整合性を図る書物として評価が高い。これらの書物にはいかなる統治がعدلであるか?という観点から、体制の正統性を担保する概念としてのعدلが示されるだろう。[湯川1983,85,90]はこれらに関するコンパクトな概説である。[Ktob 1970]もその類といえようは、[イブン・タイミーヤ1991]を受け継ぎ、神に存する主権のウンマへの委譲についてきわめて厳格である。すなわち統治権は主権の委任を通じて統治者に与えられたというカリフ論を限定的に捉え、主権よりも神の意思として顕現したところのシャリーアを重視する。政治思想を考える際の概説として、[Gibb 1962][中村1977][ローゼンタール1971][Lambton 1981][Enayat 1982][Garbet 1954]がある。[Khadduri 1984]はعدلについて特に統治の方向から整理している。すなわち法学や神学など上からのعدلが示されるわけである。

4.

統治に関するعدلが、体制の正統性を担保とするものであるとすると、現実的妥当性としてはどこに表出するだろうか。これは民衆と権力について歴史書に示される部分である。現実的妥当性の担保としてのعدلは異議申立の中心的課題となるのである。これが穏健に表出される場が、世俗法廷であるマザーリム法廷である[松田1990][加藤1995a,b]。マザーリムという言葉がズルムظلم(ẓulm)=不正と語を同じくすることからわかるように、不正を公正にただすことが意義である。また民衆騒乱の目的も公正な状態への回復をめざすものである。都市における民衆騒乱はカイロについて[長谷部1988-99]、アレッポについて[黒木1987-2000]などがある。特に長谷部は、経済的公正である「神の価格」についての関わりも論じている。制度的な面から「神の価格」を操作するのが、ムスタシブである[菊池1983]。

5.

上記では、イスラーム国家における問題点の構図である。これを民衆の側、統治の側と分けずに機能的にアプローチする場合、国家論も参照せねばならないだろう[佐藤1999][羽田2000]。また概説として法と統治に関しては[柳橋1999]がある。近代にいたってイスラーム法の施行があやふやになると、立憲思想をもって公正と捉える視点もあらわれる[嶋本1981]。スーダンのマフディー運動を帝国主義へのアンチとして捉えそこに正統性を見出すのが[栗田1990]である。またイスラーム国家の枠組みをはみ出している場合、どの程度の公正さの統治が行われれば、正当性を担保していると考えるには、中国ムスリムの事例が参考になるようにおもえる[松本2000][濱田1993][王1998]。

さらに西欧的な意味での市民社会の公正さと対置させる時には[ロック1997]や[ハーバーマス1973]の参照も必要となるだろう。

文献目録

  • アル=マーワルディー, アブー・アル=ハサン・アリー・ブン・ムハンマド 1981-1989「統治の諸規則」Ⅰ-Ⅳ(湯川武訳)『イスラム世界』19,22,27・28,31・32.
  • アサド, ムハンマド 1989 『イスラームの国家と統治の原則』(真田芳憲訳)中央大学出版部.
  • ブルデュー, P.ほか 1991 『再生産』(宮島喬訳)藤原書店.
  • Enayat, Hamid. 1982 Islamic Political Thought, London.
  • Garbet, L. 1954 La cité muslmane ; Vie Sociale et politique, Paris.
  • Gibb, H.A.R. 1962 Studies on the Civilization of Islam, London.
  • ハーバーマス, J. 1973 『公共性の構造転換』(細谷貞夫訳)未来社.
  • 濱田正美 1993 「「塩の義務」と「聖戦」との間で」『東洋史研究』52-2.
  • 羽田正 2000 「三つの「イスラーム国家」」羽田正編『岩波講座 世界歴史14 イスラーム・環インド洋世界』岩波書店.
  • 長谷部史彦 1988 「14世紀末-15世紀初頭カイロの食糧暴動」『史学雑誌』97-10.
  • ――― 1990 「イスラーム都市の食糧騒動――マムルーク朝時代カイロの場合」『歴史学研究』.
  • ――― 1993 「尖塔の上のドゥアー――カイロの民衆蜂起・1724年11月」『イスラム世界』42.
  • ――― 1994 「オスマン朝統治下カイロの食糧騒動と通貨騒動」『東洋史研究』53-2.
  • ――― 1999 「王権とイスラーム都市-カイロのマムルーク朝スルタンたち」佐藤次高編『岩波講座 世界歴史10 イスラーム世界の発展』岩波書店.
  • イブン・タイミーヤ 1991 『イスラーム統治論――シャリーアによる統治』(湯川武・中田考訳)日本サウディアラビア協会
  • イブン・ハルドゥーン 1979-1987 『歴史序説』(森本公誠訳)3巻, 岩波書店.
  • 井筒俊彦 1991 『イスラーム文化――その根柢にあるもの』岩波文庫, 岩波書店.
  • イェーリング 1982 『権利のための闘争』岩波文庫, 岩波書店.
  • 上岡弘二 1990 「イランの諸王朝」小谷汪之編『権威と権力』(シリーズ「世界史への問い」7)岩波書店
  • 加藤博 1995a 「イスラム政治における公正と秩序――中心なき政治原理」『一橋論叢』114-4.
  • ――― 1995b 『文明としてのイスラム 多元社会叙述の試み』東京大学出版会.
  • Khadduri, M. 1984 The Islamic Conception of Justice, The Johns Hopkins University Press.
  • 菊池忠純 1983 「マムルーク時代のカイロのムスタシブ」『東洋学報』64-1・2
  • 小杉泰 1994 『現代中東とイスラーム政治』昭和堂.
  • ――― 1995 「統治の目的――イスラーム政治史の眺望から現代へ」湯川武編『イスラーム国家の理念と現実』講座イスラーム世界5, 栄光教育文化研究所.
  • Ktob, Sayed. 1970 Social Justice in Islam, New York.
  • 栗田禎子 1990 「スーダンのマフディー運動における「正統性」」小谷汪之編『権威と権力』(シリーズ「世界史への問い」7)岩波書店.
  • 黒木英充 1987a 「19世紀シリアにおける都市騒乱――アレッポを素材として」『比較都市史研究』6-2.
  • ――― 1987b 「アレッポ都市社会の構造――18世紀後半から19世紀始め中心に」『比較都市史研究』6-2.
  • ――― 1988 「都市騒乱に見る社会関係:アレッポ、1819-20年」『日本中東学会年報』3-1.
  • ――― 1989 「都市騒乱に見る社会関係――アレッポ・1850年」『東洋文化』69.
  • ――― 1995 「ギリシア正教=カトリック衝突事件――アレッポ,1818年」『アジア・アフリカ言語文化研究』48・49.
  • ――― 2000 「前近代イスラーム帝国における圧政の実態と反抗の論理-1784年アレッポの事例から-」羽田正編『岩波講座 世界歴史14 イスラーム・環インド洋世界』岩波書店.
  • Lambton, Ann K.S. 1981 State and Government in Medieval Islam. An Introduction to the study of Islamic Political theory: the jurists, Oxford.
  • ロック, ジョン 1968 『市民政府論』(鵜飼信成訳)岩波文庫, 岩波書店
  • ――― 1997 『全訳統治論』(伊藤宏之訳)柏書房.
  • 松田俊道 1990 「マムルーク朝時代のマザーリム制度に関する覚書」『イスラム世界』
  • 松本ますみ 2000 「中国イスラーム新文化運動とナショナル・アイデンティティ」西村成雄編『現代中国の構造変動3-ナショナリズム』東京大学出版会.
  • 中田考 1991 「イスラーム法学に於けるカリフ論の展開」『オリエント』33-2.
  • 中村廣治郎 1977 『イスラム――思想と歴史』東京大学出版会.
  • 中野敏男 1996 「支配の正当性――権力と支配を新たに概念構成する視野から」『岩波講座 現代社会学16 権力と支配の社会学』岩波書店.
  • 王柯 1998 「ウンマと中華の間-清朝治下の新疆ウイグル社会-」小松久男編『岩波講座 世界歴史21 イスラーム世界とアフリカ』岩波書店.
  • 大澤真幸 1996 「支配の比較社会学に向けて」『岩波講座 現代社会学16 権力と支配の社会学』岩波書店.
  • コーラン 1957-58 『コーラン』上・中・下(井筒俊彦訳), 岩波文庫, 岩波書店.
  • ローゼンタール, E.I. 1971 『中世イスラムの政治思想』(福島保夫訳)みすず書房.
  • 佐藤次高 1999 「イスラーム国家論」佐藤次高編『岩波講座 世界歴史10 イスラーム世界の発展』岩波書店.
  • 嶋田襄平 1977 『イスラムの国家と社会』岩波書店.
  • ――― 1982 「アドル」日本イスラム協会編『イスラム事典』平凡社.
  • 嶋田襄平ほか 1967 『イスラムの思想』講座東洋思想7, 東京大学出版会.
  • 嶋本隆光 1981 「イラン立憲革命(1905~1911年)初期におけるウラマーの役割と公正(ʻadl)について」『アジア経済』22-6.
  • ターナー, ブライアン・S. 1994 『ウェーバーとイスラーム』(香西純一、筑紫建彦、樋口辰雄訳)第三書館.
  • Tyan, E. 1960 ʻadl, The Encyclopedia of Islam, new ed. , Leiden.
  • 宇山智彦 1997 「20世紀初頭におけるカザフ知識人の世界観 : M. ドゥラトフ「めざめよ、カザフ!」を中心に」『スラヴ研究』44.
  • Watt, W.M. 1968 Islamic Political Thought: The Basic Concepts, Edinburgh.
  • ウェーバー, マックス 1960-1962 『支配の社会学』Ⅰ・Ⅱ(世良田志郎訳)創文社.
  • ――― 1970 『支配の諸類型』(世良田志郎訳)創文社.
  • ――― 1980 『職業としての政治』(脇圭平訳)岩波文庫, 岩波書店.
  • 山口節郎 1995 「正統性」新田義弘ほか編『権力と正統性』岩波書店.
  • 柳橋博之 1999 「イスラーム法と統治のシステム」佐藤次高編『岩波講座 世界歴史10 イスラーム世界の発展』岩波書店.
  • 湯川武 1983 「イブン・タイミーヤの統治論研究序説―1―」『慶応義塾大学商学部日吉論文集』32.
  • ――― 1985 「イスラム改革思想の流れ――ハンバル派小史」中村廣治郎編『イスラム 思想の営み』講座イスラム1, 筑摩書房.
  • ――― 1990 「イブン・アル=ファッラーとイブン・タイミーヤ――中世イスラームの政治思想の展開」『オリエント学論集』26.
  • ――― 1995 「正義と秩序――サイイド・クトゥブの社会公正論を中心として」湯川武編『イスラーム国家の理念と現実』講座イスラーム世界5, 栄光教育文化研究所.

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